夏に熱く盛り上がる夏の甲子園(全国高校野球選手権大会)で耳にする”栄冠は君に輝く”♪2020年は新型コロナウイルスの感染拡大防止のため、春のセンバツ・夏の甲子園ともに中止になり、流れることはありませんでした・・・。
そこで朝日新聞社が企画したのが「みんなで『栄冠は君に輝く』」!第102回全国高校野球選手権大会の開会式があるはずだった8月10日に、それぞれの場所で大会歌を演奏しようと呼びかけたのです。そして完成したのがコチラ・・・
そこで今回は、『栄冠は君に輝く』の作詞家について・誕生秘話・エピソードなどを紹介します!
ーもくじー
『栄冠は君に輝く』作詞家について!
『栄冠は君に輝く』の詩を書いたのは、1914年10月1日に石川県能美郡根上町(現:能美市)で生まれた作詞家・加賀大介さんです!出生名は”中村義雄”で、後に本名をペンネームの一つでもあった「加賀大介」に改名しています。
『栄冠は君に輝く』の誕生秘話!
いつ誕生したの?!
1915年(第1回大会) から豊中球場で行われ始めた「全国中等学校優勝野球大会」。1948年(第30回大会) に学制改革が行われ『全国高等学校野球選手権大会』と名称が変更されました。朝日新聞社はそれに合わせ、学制改革を記念して”新しい大会歌”を作ろうと企画します!
歌詞は、全国から募集していた5,252作品の中から加賀大介さんの詩「栄冠は君に輝く」が選ばれました。そして、朝日新聞学芸部に所属していた野呂信次郎さんが古関裕而さんに作曲をオファーして完成したのです。
古関裕而さんは甲子園球場に足を運び、無人のグラウンドで熱戦を思い浮かべています。すると、メロディーが自然と湧いてきたそうです。
加賀大介さんは名前を借りて応募していた?
『栄冠は君に輝く』の詩を書いた加賀大介さんは、婚約者(後に妻となります)であった当時23歳の金沢地方貯金局職員・高橋道子(結婚後は中村道子)さんの名前を借りて応募していました。
高橋道子さんの名前を借りて応募した理由は、加賀大介さんが短歌や演劇の会を主宰し、脚本を書いていたプロの文筆家であったため「懸賞金目当て」と思われるのが嫌だったからです。賞金は5万円で、当時の公務員がもらっていた給与の約10倍以上でした。
加賀大介さんが「絶対に本当のことを言わないでくれ」と口止めしていたため、当選してから1968年までは「中村道子作詞・古関裕而作曲」と表記されていました。そして20年後の1968年2月、第50回大会を機に朝日新聞の取材で「作詞者は夫でした」と告白し「加賀大介作詞・古関裕而作曲」と表記されるように。
どうやって歌詞が生まれた?
加賀大介さんは、野球用具も乏しかった少年時代に手作りのボールやグラブを使って野球を楽しんでいました。しかし、16歳の時に参加した試合で、右足のつま先をけがして骨髄炎となってしまいます。その後、ひざ下を切断し松葉杖生活となっていました。
やがて、作家を目指すようになった加賀大介さん。1948年33歳の時に、野球に対する熱い想いを込め「栄冠は君に輝く」を書いたのです。
歌い手は誰?
当時の名流行歌手・伊藤久男さんが歌いました。
伊藤久男さんは、古関裕而さんの勧めで1933年(昭和8年)6月25日に、リーガルから「今宵の雨」でデビューしています。コロムビアからのデビューも果たした伊藤久男さんは、1940年(昭和15年)に「暁に祈る」「お島千太郎旅唄」などがヒットしてスター歌手の仲間入りしました。
終戦直後は軍事歌謡を歌っていた責任感から引きこもるようになり、酒に溺れて再起不能とも言われていまいます。しかし、1947年(昭和22年)松竹映画「地獄の顔」の主題歌「夜更けの街」で復帰し、『栄冠は君に輝く』を歌いました。
エールで描かれる「栄冠は君に輝く」
【第18週】
裕一(実在モデル:古関裕而さん)は慰問することを決意し、ビルマ(現:ミャンマー)の学校や施設へ出かけていました。別れ際、同行していた作家の水野伸平から、最前線の将兵のために書かれた「ビルマ派遣軍の歌」の詩を託されます。
2か月たったある日、新聞記者・大倉憲三(実在モデル:野呂信次郎さん)からビルマに藤堂先生がいるという情報を教えてもらいました。藤堂先生は、補給路の警備に当たる部隊の隊長をしていたのです。そんな藤堂先生に”ビルマ派遣軍の歌”を捧げたいと、裕一は慰問を申し出ました!
【第20週】
終戦から3年がたち、裕一は意欲的に作曲活動をしていました。そんなある日、鉄男(実在モデル:野村俊夫さん)と裕一が話していると、歌手の藤丸がやってきて「ついて来て欲しい」というのです。そこは、古い小さな家でした。荒れた部屋の中には、薄汚れた服を着た久志(実在モデル:伊藤久男さん)がお酒を手に座っていました。農地改革で土地や財産を失い、父親が亡くなってからは酒と博打に明け暮れていたのです。
それ以来、裕一と鉄男はたびたび訪れますが、久志とまともに話すことができませんでした。一方、裕一は記者の大倉から”全国高等学校野球選手権大会”の新しい大会歌「栄光は君に輝く」の作曲を頼まれていました。
そこで裕一は、君に歌って欲しいと久志に頼みますが「同情なんてごめんだ」と楽譜を突き返されてしまいます。久志が戦時歌謡を歌っていたため、父親が周囲から悪口を言われたのを、自分が父親を苦しめたと責め続けていたのです。
裕一は、もう一度歌ってほしいという思いから曲を作り上げました。久志は緊張しながらも歌い、「夜更けの街」が復帰作に!しかし、久志はその後も泥酔していました。何度も断られた裕一は、そんな久志を甲子園球場へ連れていくことにしたのです。
そして作詞をした多田良介が、足のケガで甲子園への道を断たれるという絶望を経験したからこそ、あの詩が生み出せたんだと話しました。「戦時歌謡に誘ったのは僕、ごめん。でも絶望を知っている君なら歌える、君じゃなきゃダメなんだ」と。すると、思いが伝わった久志はマウンドへ歩き出し、歌い始めます。こうして今も愛され続けている、夏の高校野球を象徴する『栄光は君に輝く』が誕生しました。
エール第8週では、裕一が早稲田大学応援団長・田中隆から「紺碧の空」に曲をつけてほしいと頼まれます。しかし裕一はなかなか書くことができませんでした。
そんな裕一に団長は、「俺は、甲子園に行けると期待されていました。その原動力は清水誠二で、清水とはバッテリーを組んでた親友でした。雨の中キャッチボールをしているとき、わざと遠くに投げました。その時に清水の足が溝に入り、手術をするようなケガを負わせてしまった。足はもと通りにはならず・・・学校もやめてしまいました。」と話しています。
エールでも、実話をモデルとして描かれていくようですね!そして、エールに登場する「栄冠は君に輝く」を作詞をした多田良介とケガをした清水誠二は、加賀大介さんをモデルとしていることが分かりました。
『栄冠は君に輝く』のエピソードを紹介!
大会歌が新しくなって優勝した高校は?
「栄冠は君に輝く」が大会歌となった1948年に優勝したのは、福岡県の「小倉高校」でした!しかも小倉高校は、全国中等学校野球大会の最後の年に優勝し、全国高等学校野球大会の最初の年に優勝し、2連覇を果たしています。その栄光を記念して、小倉高校明陵同窓会は学校創立80周年にあたる1988年にグラウンドの隅に2連覇記念碑を建立しました。
優勝した際のエース・福嶋一雄さんは、5試合連続完封を記録しています!
JR福島駅でも使用?!
2009年4月11日からJR東日本「福島駅」の東北新幹線ホームで、発車メロディとして使用されています。福島市出身の古関裕而さん生誕100年を記念したものです。2015年3月1日から2017年3月末までは、能美市根上地区出身である加賀大介さんにちなんでJR西日本「北陸本線能美根上駅」のホームで、列車接近メロディとして使用されていました。
まとめ
今回は、全国高等学校野球選手権大会の大会歌「栄冠は君に輝く」の作詞者や誕生秘話について紹介しました☆2020年は、残念ながら甲子園球場で聞くことはできませんでした・・・。しかし、これだけ愛されている曲なので、たくさんの方が口ずさんだと思います☆今後も、大切に歌い継がれていってほしいですね♪
最後まで読んでいただき、ありがとうございました☆