連続テレビ小説105作目『カムカムエヴリバディ』
ラジオ英語講座と共に歩んだ、3人のヒロインが紡ぐ100年のファミリーストーリー。そんな「カムカムエヴリバディ」の実在モデルは、さだまさしさんが演じる”平川唯一”さんです。そこで今回は、実在モデル・平川唯一さんがどんな人物なのか注目していきます。
ということで、「カムカムエヴリバディ」の実在モデル・平川唯一さんの生涯や家族の現在について紹介します☆
ーもくじー
平川唯一さんの生涯に注目!
1902年(明治35年)2月13日、岡山県上房郡津川村(現:岡山県高梁市津川町)で、平川定二郎さんの次男として誕生。平川家は貧しい農家だったため、平川唯一さんは14歳で尋常高等小学校高等科を卒業後、中学への進学は諦め、家業の農家を手伝っていました。
アメリカへ?!
父・平川定二郎さんはアメリカへ出稼ぎに行き、“鉄道働き”をしていましたが、一度戻って来ただけで、なかなか帰国していませんでした。そこで、平川唯一さんが「早く帰って来て欲しい」と手紙を書くと、驚くことに「おまえたちも一度来てみるか?」と旅費が送られてきました。
そして1918年、16歳になった平川唯一さんはABCも分からないまま、お兄さんと共にアメリカへ渡ります。その後、1年ほど鉄道の仕事を一緒にし、父・平川定二郎さんを日本に帰国させました。この時、平川唯一さんとお兄さんは、せっかくの機会だからとアメリカに残っています。
アメリカでの生活
アメリカに残った平川唯一さんは、シアトルに移って日本人商店の店員として半年間勤務していましたが、英語が話せずに苦労していました。なので、アメリカ人家庭にスクールボーイとして住み込んで、働きながら学校へ通うことに。
この時「”タダイチ”って呼びにくい。名前をハリー・ジェームス・デット・ジョーから選んで」と言われ、ジョーという名を選択しています。
ジョー平川となった唯一さんは、幼い子どもたちに交じって小学校で学ぶことから始めました。3年後には、飛び級を重ねて8年生までを修了。そして、ブロードウェイ・ハイスクール(現:シアトル・セントラル・カレッジ)を4年で終えて、ワシントン大学に入学しました。
大学では「発明家になろう」と物理学を専攻していましたが、1年後に方針を変更して演劇を専攻し卒業。1931年には、演劇科を首席で卒業して文学士となりました。
結婚と帰国
大学卒業後、ロサンゼルスのセントメリーズ・チャーチの副牧師になって日米文化の伝達に努めていた平川唯一さん。1935年、教会で出逢った東京神田出身の”滝田よね”さんと結婚しました。
この頃、俳優としてJoe Hirakawaの名で『マダム・バタフライ』『ダイヤモンド島の謎』など、ハリウッド映画やパサディナ小劇場に出演しています。
1937年、生まれた長男を抱えて日本へと帰国。その後、JOAK海外放送(現:NHKラジオ国際放送)のアナウンサーとして働き始めます。1945年8月には、国際部チーフアナウンサーとして、玉音放送を英訳し世界に向けて発信しました。
戦後とカムカム英語
終戦後、外国放送が廃止されたのでいったんNHKを退職。しかし、NHKから『ラジオ英語講座の講師』をしてくれないか?と頼まれ、1946年2月から5年間、NHK第一放送で15分間の英語講座(通称:カムカム英語)を開始しました。
その後、英語講座は誰もが知っている「証城寺の狸囃子」のメロディーにのせて「カム・カム・エヴリバディ〜」と歌うテーマソングで始まり、人気番組となっていきます。
晩年
カムカム英語は、ほぼ10年ラジオから流れ続けました。平川唯一さんには、50万通余りのファンレターが届けられています。
しかし、英語ブームが終焉したこともあり聴取率は低迷し続け、1955年(昭和30年)に
打ち切りになってしまいました。平川唯一さんはその後、1957年に太平洋テレビに入り、国際部長を経て副社長に就任。1976年には、勲五等双光旭日章を受賞しました。
79歳のとき、ラジオテキストから20話を選び、英文の読みをフリガナで示すことに一層の工夫を加えた『みんなのカムカム英語』を、新たに吹き込んだテープ付きで出版。1986年には、全54冊のラジオテキストを収めた復刻版を出版しています。
1992年に、大学英語教育学会(JACET)から特別功労賞を贈られた平川唯一さんですが、翌年の8月25日に91歳で死去しました。
平川唯一さんの家族の現在は?
平川家では、子どもたちは両親をダディー・ママと呼び、4人の子どもたちはそれぞれ英語名で呼ばれていました。長男はビクター、末っ子はメリーです。
妻:滝田よねさん
よねさんは、東京神田に生まれ育った“神田っ子”で、進取の気性に富んでいたそうです。小学校教師を務めていましたが、仕事を辞めて留学生としてアメリカへ。その時に、平川唯一さんと出会い結婚しました。
日本舞踊と清元(三味線による歌舞伎の伴奏音楽)をたしなんでいたようで、娘2人にも日本舞踊の稽古をしています。
※その後の情報は見つかりませんでした。分かり次第追記します。
長男:平川壽美雄さん
ロサンゼルス生まれの壽美雄は、貨物船に乗って15歳でアメリカに戻り、苦学してエベレット高校・ワシントン大学・ニューヨーク大学ロースクールを修了しています。
銀行家として主にシアトルで勤務し、日本経済が急成長した1980年代後半には三菱銀行シアトル支店長を務め、ワシントン州日米協会会長などを歴任しました。そんな壽美雄さんは、2018年に他界しています。
次男:平川洌さん
1941年、平川唯一さんの次男として東京世田谷に生まれました。1964年に、自由学園最高学部経済学科卒業し、ホリー株式会社・貿易部で勤務し始めます。1975年には、ホリー商事株式会社を設立し、全世界を相手にビズネス取引を展開。現在は、代表取締役を務めています。
さらに、カムカム英語センターのリーダーでもあり、慶應義塾外国語学校で25年間英会話講師を務めました。また、ウクレレの第一人者で、国内外で演奏活動をしています。現在、18の教室でウクレレ・ソロを教えているそうです。
次女:萬里子(大野メリー)さん
4人兄妹の末っ子として1945年に、東京で生まれました。日本舞踊を6歳で、長唄三味線を20代で始めてそれぞれの名取となり、舞踊では花柳芙美龍、三味線では杵家弥七蝶を名乗っています。
日本では、平川唯一さんが主宰したカムカムクラブで英語を教えたほか、本田技研工業外国部などでの勤務を経験。日本の文化・伝統芸能をアメリカで紹介しようと1983年に歌舞伎アカデミーを創設しました。現在もオンラインも駆使して、日本舞踊・長唄三味線・日本語会話を教えています。
※長女については、次女・萬里子さんの3歳上で、小学6年生まで踊りを続けていたということしか分かっていません。名前や経歴などの情報があれば紹介します。
まとめ
今回は、「カムカムエヴリバディ」の実在モデル”平川唯一”さんについて紹介しました☆平川唯一さんが担当した英語会話は、「カムカムベイビー」と呼んで大切にしたリスナーの輪は広まり続け、最盛期には聴取率22.4%にもあがったそうです。
『カムカムおじさん』と親しまれてきた平川唯一さんがどう描かれるのか、楽しみにしましょう♪最後まで読んでいただき、ありがとうございました☆