連続テレビ小説103作目『おちょやん』
女優の道を生き抜き「大阪のお母さん」と呼ばれるまでになった、ひとりの女性の物語。これから登場する松島寛治は、大山鶴蔵社長の命令で「鶴亀家庭劇」に預けられ、千代と一平のもとで生活することに。そこで今回は、松島寛治の実在モデル(実話)に注目してみます!
ということで、松島寛治の実在モデル「藤山寛美」さんの生涯や家系図・妻や子どもの現在について紹介します☆
ーもくじー
藤山寛美さんの生涯について!
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本名は稲垣完治。1929年(昭和4年)6月15日に、関西新派「成美団」の俳優・藤山秋美さんと新町のお茶屋「中糸」の女将・稲垣キミさんの息子として大阪府大阪市西区に生まれました。5人兄弟の5番目で、3男です。
父との別れ
父親の藤山秋美(本名:久保田諒治)さんは、巡業先の名古屋で倒れ結核と発覚。1年間の入院生活を送りましたが、昭和1933年(昭和8年)に死去しました。
実は、子どもが5人いましたが入籍していなかった2人。稲垣キミさんは、夫の藤山秋美さんが倒れた際に慌てて入籍しようとしていたそうですが間に合わず、藤山寛美さんは「稲垣」姓のままとなりました。
その後、お茶屋「中糸」の女将をしていた母・稲垣キミさんは、女将時代の知り合いの伝を頼り大阪市住吉区へ移り住み、仕立ての仕事を始めます。
ある日、新派の女形・花柳章太郎さんが訪ねてきて「子どもが5人いるし、一人くらいは役者にした方が藤山秋美も喜ぶんじゃないか?」と提案してきました。それがきっかけで、末っ子だった藤山寛美さんが役者になることに。
そうして藤山寛美さんは、4歳で都築文男さんの弟子となりました。この時に、父親よりも寛大になれという意味を込めて「藤山寛美」という芸名がつけられたそうです。そして、1934年(昭和9年)1月に初舞台を踏み5歳で子役デビューしました。
2代目・渋谷天外さんとの出会い
子役として新派や歌舞伎の舞台で活躍していた藤山寛美さんは、13歳の時に2代目・渋谷天外さんと出会います。
きっかけは、1941年(昭和16年)に「松竹家庭劇」に助っ人として参加したことでした。その際、2代目・渋谷天外さんは藤山寛美さんの事を気に入り、「お前の顔は新派ではなく、喜劇の顔だ。家庭劇に入らないか?」と誘っています。
そして、2代目・渋谷天外さんと母親や師匠が話し合った結果、藤山寛美さんは「松竹家庭劇」へと入ることになりました。
渋谷天外さんと浪花千栄子さんには子どもが居なかったので、藤山寛美さんを実の子のように可愛がっていたそうです。
1945年(昭和20年)戦況が悪化。しかし、大勢の若者が予科練に志願するなか、藤山賛美さんは芝居を続けていました。周りからは、”非国民だ”と冷たい視線を浴びせられたそうです。そんな時、藤山寛美さんは都築文男さんから満州慰問隊に誘われます。そして「松竹家庭劇」を辞め、慰問隊の一員として満州へ向かいました。
「すいーと・ほーむ」のメンバーに
藤山寛美さんが終戦を迎えたのは、奉天(現:瀋陽)でした。一時期、ソ連軍に抑留されていましたが、解放後は靴磨き・芝居・ブローカーなどをしながら生き延び、1947年(昭和22年)秋に帰国しました。
この頃、2代目・渋谷天外さんは曽我廼家十吾さんと喧嘩していたようで「松竹家庭劇」を飛び出しています。そして、新しく「すいーと・ほーむ」という劇団を旗揚げし、地方巡業をしていました。帰国した藤山寛美さんも、「すぃーと・ほーむ」に合流しています。
大スターに!!
1948年(昭和23年)11月1日、喜劇王の曾我廼家五郎さんが死去。すると、松竹は「曾我廼家五郎劇」と「松竹家庭劇」を合併した「松竹新喜劇」を旗揚げしました。藤山寛美さんも旗揚げに参加し、1949年(昭和24年)20歳の時に「ボス追放」で初めて主役を演じています。
その後も若手の一人として活躍していた藤山寛美さん。1951年(昭和26年)2代目・渋谷天外さんがヒットさせた「桂春團治」の酒屋の丁稚役が、批評家や演劇関係者に評価され、一躍人気役者となりました。さらに、2代目・渋谷天外さんが藤山寛美さんのアホ役を生かすために書いた「あてにならない人々」もヒットしています。
方向性の違いから看板役者の曾我廼家十吾さんが退団するなど再びピンチが訪れますが、1957年(昭和32年)に放送開始したテレビ番組「親バカ子バカ」が大ヒットし、松竹新喜劇は”テレビの新喜劇”と言われるように。
さらに、テレビ番組がヒットしたことにより、藤山寛美さんも全国的に有名となって”新喜劇のプリンス”と呼ばれるようになりました。
激しいお金遣い…
母親の稲垣キミさんから「きれいに遊んで、きれいに別れろ」「遊ばん芸人は華が無うなる」と教わってきた藤山寛美さん。女遊びだけでなく、ボーイに車を買い与えるなどしていました。
藤山寛美さんは役者として話題づくりが大切と考えていたようですが、マスコミには「舞台だけでなく、私生活もアホ」と書かれてしまいます。
やがて借金は、出資先の倒産・不渡り・手形の持ち逃げなどが重なり4,500万に…。そして、気付いたころには1億8000万円の借金ができていました。
「松竹新喜劇」を解雇?!
看板俳優兼作家として大活躍するようになった2代目・渋谷天外さんは、1965年(昭和40年)に「(株)松竹新喜劇」を設立し、常務取締役に就任。松竹新喜劇の人気は急上昇していきました。しかし、激務をこなしていた渋谷天外さんは公演中に脳出血で倒れ入院してしまします。
この時、2代目・渋谷天外さんは藤山寛美さんを呼び「松竹新喜劇」を頼むと言い、藤山寛美さんが事実上の座長となりました。そして2代目・渋谷天外さんの穴を埋めるため、ミヤコ蝶々さんと南都雄二さんが加わっています。
1966年(昭和41年)、藤山寛美さんの多額の借金や暴力団との関係が明るみに出てしましい、借金取りが自宅や楽屋に押しかけてくるように。それが原因で藤山寛美さんは、専務の勝忠男さんから解雇されてしまいます。
しかし、藤山寛美さんが辞めたことで客足は伸びなくなりました。藤山寛美さんを復帰させたい2代目・渋谷天外さんは、反対派の勝忠男さんと対立。そこで「(株)松竹新喜劇」を解散して、松竹の劇団「松竹新喜劇」として再出発することにしました。
そして松竹が借金を肩代わりし、藤山寛美さんさんは再び舞台へ。「松竹新喜劇」は再び人気を取り戻しました。
晩年
復帰した藤山寛美さんは、借金を返済するために20年間に渡り1日も休まず舞台に立ち続けました。しかし、無休公演に参加している団員たちの不満は爆発。有力な座員であった曾我廼家鶴蝶さんや、小島秀哉さんが退団してしまったです。
1980年代になると、観客数は次々に落ちていくばかり…。焦った藤山寛美さんは団員の入れ替えや降格抜擢人事などを行いましたが、勢いの衰えは隠しようがありませんでした。それでも休むことなく公演を続け、借金は19年目に完済しました。
1990年(平成2年)1月頃からは体調不良が続きます。そこで、検査を受けに大阪市立大学病院に行くと、肝硬変と診断されてそのまま入院することに。そして、藤山寛美さんは5月21日に60歳で死去しました。
藤山寛美さんの家系図をチェック!
【父親:藤山秋美さん】
稲垣キミさんと結婚をして子ども5人に恵まれますが、入籍をしていなかったため戸籍上は父親ではありませんでした。
【母親:稲垣キミさん】
三重県出身で、稲垣家は鎌倉時代の武士・鎌倉権五郎景政の流を汲む梶原氏の家系です。藤山秋美さんとは、お茶屋「中糸」を経営していた時に出会っています。
※長女と4女については、詳しい情報がありませんでした。分かり次第紹介します。
妻や子どもの現在は?
妻:高橋峰子さん
藤山寛美さんと髙橋峰子さんは、1951年(昭和26年)に出会い半年後に結婚しています。入籍したのは、1955年(昭和30年)です。
髙橋峰子さんにとっては2人の娘を連れての再婚で、お互いの両親には反対されていました。さらに、師匠でもある2代目・渋谷天外さんからも反対されていたそうです。
1958年(昭和33年)12月、髙橋峰子さんとの間にできた3女が誕生。渋谷天外さんのペンネーム「館直師」から”直”という字をもらい『直美』と命名。すると、2代目・渋谷天外さんから「離婚しろ」と言われなくなったそうです。
藤山寛美さんの借金を返済する際に立ち上げた個人事務所の社長を務めていましたが、その後についての詳しい情報はわかりませんでした。
次女・美千代さん
次女の美千代さんは、母が社長を務めていた個人事務所で事務員として働いています。プライベートでは、歌手の美樹克彦さんと婚約していたそうですが、藤山寛美さんが反対してことにより解消されたそうです。その後、別の男性と結婚しています!
3女・藤山直美さん
1958年12月28日に大阪府大阪市で生まれ、2歳半で初舞台を踏みました。5人姉妹で唯一、父の藤山寛美さんと同じ道を歩み、舞台を中心に活躍しています。
1964年1月に、藤山寛美さんが主役を務めたテレビ番組「お好み新喜劇・初代桂春団治」でデビューしました。1992年には、出演したNHK連続テレビ小説「おんなは度胸」での名脇役ぶりが評判に。映画「顔」では、演技が高く評価され数々の映画賞を受賞しています。
2017年2月に初期の乳癌が見つかり、活動を休止。2018年10月には、主演舞台「おもろい女」で舞台復帰しました。
5女・酒井美千留さん
1962年(昭和37年)に誕生した美千留さん。小唄白扇派の家元・白扇夕樹夫さんと結婚し、酒井姓となりました。そして、1987年1月21日に長男の扇治郎さんが誕生しています。
酒井美千留さんは、2005年(平成17年)1月に42歳という若さで死去。死因は、心不全だったようです。
孫は藤山扇治郎さん!
小唄白扇派の家元・白扇夕樹夫さんと、藤山寛美さんの5女・美千留さんとの間に誕生した”藤山扇治郎”さん。「扇治郎」という名前は、祖父・寛美の本名・稲垣寛治から「治」の一字をとって名付けられました。
1993年6歳の時に、藤山寛美さんと親交のあった中村勘三郎さんから誘われて、東京・歌舞伎座での『怪談乳房榎』で初舞台を踏みました。その後は子役として、歌舞伎や藤山直美さんの舞台・テレビドラマで活躍しています。
学業専念のため一度は活動休止していますが、2009年に俳優デビューし「鈴子の恋 ミヤコ蝶々女の一代記」「赤い糸の女」などに出演。また2013年には、創立65周年を迎える『松竹新喜劇』へ正式に入団しています。
2017年に公開された『家族はつらいよ2』で映画初出演、2018年には連続テレビ小説『まんぷく』に初出演を果たしました。「まんぷく」では、安藤サクラさんが演じるヒロインに思いを寄せ缶詰を送り続ける姿が話題に!
プライベートでは、2018年5月の松竹の舞台『蘭 〜緒方洪庵 浪華の事件帳〜』で共演した元宝塚歌劇団所属で女優の北翔海莉さんと結婚。そして、2020年9月12日に第1子の男児が誕生しました。
藤山扇治郎さんも「おちょやん」に登場!
鶴亀家庭劇のライバル・須賀廼家万太郎一座の座員”須賀廼家万歳”で万太郎を尊敬しているという役柄です!
まとめ
今回は、「おちょやん」に登場する松島寛治の実在モデル”藤山寛美”さんについて紹介しました☆松島寛治は、上方喜劇界を代表する”新喜劇のプリンス”と呼ばれた藤山寛美さんがモデルということで注目を浴びそうですね!
おちょやんではどう描かれるのか、楽しみにしましょう♪最後まで読んでいただき、ありがとうございました☆