連続テレビ小説103作目『おちょやん』
女優の道を生き抜き「大阪のお母さん」と呼ばれるまでになった、ひとりの女性の物語。女優の道にすべてを懸けるヒロイン・竹井千代は、喜劇界のプリンス・天海一平と結婚し、自分らしい生き方と居場所を見つけていきます☆今回は、そんな竹井千代の実在モデル(実話)”浪花千栄子”さんに注目してみました!
ということで、竹井千代の実在モデル「浪花千栄子」さんの生涯・家系図・養女・出演作について紹介します☆
ーもくじー
浪花千栄子さんの生涯について!
おはようさんです
ぼちぼち行こう😊
浪花 千栄子💕
なめたらえらい目にあいまっせ! pic.twitter.com/wWNyZ17eqM
— ねろおやぶん (@nerooyabun1) September 24, 2020
おちょやんに登場する竹井千代の実在モデルは、「大阪のお母さん」と呼ばれていた女優の”浪花千栄子”さんです。
芸名:浪花千栄子(なにわちえこ)
本名:南口キクノ(なんこうきくの)
別名義:香住千栄子(かすみちえこ)
生年月日:1907年11月19日
出生:大阪府
幼少期
浪花千栄子さんは1907年(明治40年)11月19日に、大阪府南河内郡大伴村大字板持(現:富田林市東板持町)で「養鶏業」を営んでいた南口卯太郎さんの長女として誕生しました!
母親の南口キクさんは、浪花千栄子さんの弟を生んだ時に病気となり早くに亡くなっています。浪花千栄子さんが4歳の時でした。そのため、弟の面倒や家事をしないといけないという理由で、小学校に通うことができませんでした。
父親が再婚!
浪花千栄子さんが8歳の時、南口卯太郎さんが飲食店の仲居さんと再婚!そのため、弟の面倒や家事をしなくてよくなったので、ようやく小学校に通えるようになりました。
しかし新しい母は、妻としての仕事も母としての仕事もしない人で心配が尽きませんでした。何とか学校に通えるようになった浪花千栄子さんでしたが、お弁当を作ってもらえず自分でおかゆを絞って持っていってました。
周りの子どもたちは、母親の作ったお弁当を持参していたので、浪花千栄子さんのお弁当を見てバカにします。それから浪花千栄子さんはお弁当を持参することを辞め、給食時間は校庭で過ごすようになりました。
さらに問題が・・・新しい母親は、先生から何度督促されても月謝を払ってくれなかったのです!そのため、わずか2か月で小学校を辞めることになりました。
おちょやんに・・・
新しい母親は、何度も家出を繰り返すようになっていました。その都度、南口卯太郎さんが連れ戻していたのですが、ある時「あの子は嫌だから追い出して」という約束をして帰ってきたのです。
そして南口卯太郎さんは、浪花千栄子さんを祖母に預けに行きました。その後、弟も預けにきたため祖母は困り、8歳の浪花千栄子さんを道頓堀にある仕出し料理屋「浪花料理」のおちょやんとして奉公を始めさせたのです!
●「おちょやん」とは、“おちょぼさん”がなまった大阪ことばで、茶屋や料亭などで働く、小さい女中さんを意味しています。
●この頃、「浪花料理」の向かいにある芝居喫茶「岡嶋」に渋谷天外さんが居候していたので2人は出会っています。
そんな奉公先「浪花料理」の主人はかなり厳しい人だったようです。今でいう”パワハラ”。米粒が洗い場から1粒でも流れていくと「これを食べな。嫌なら1粒でも大事にしろ!」とゴミの中から拾った米粒を食べさせるほどでした。
父親が奉公先に・・・
厳しい女中生活を初めて8年目。浪花千栄子さんのもとに南口卯太郎さんが現れました。お金に困り、浪花千栄子さんの貯金を目当てにきたのです!しかし、着物と食事を保証するという契約で給料をもらっていない浪花千栄子さんには貯金がありませんでした。
南口卯太郎さんは、その契約に納得いかず浪花千栄子さんを辞めさせ、退職金15円払わせました!そして、今度は浪花千栄子さんを酒屋へ奉公に出します。しかし、南口卯太郎さんが毎月給料の前借に行くので3か月でクビに・・・
そこで南口卯太郎さんは、2年間の給料前払いという条件で浪花千栄子さんを木材屋に奉公に出しました。その後、そのことを知った浪花千栄子さんは奉公先から逃げ出しています!
京都のカフェーに就く!
奉公先から逃げ出し京都へやってきた浪花千栄子さん。お屋敷奉公の仕事を探しますがすぐには見つからず、兵隊を相手にするカフェー「オリエンタル」を紹介してもらい、女給として働くことになりました。
カフェー「オリエンタル」では売春が行われていて、無理だと思った浪花千栄子さんは裏方の仕事をしていたそうです。しかし、女給のユリちゃんに「兵隊さんのチップで生活していかないといけないから、表にでたほうがいい」と言われ客をとるように。
すぐに客がつき売春が決まっていましたが、当日にユリちゃんから「一緒に女優になろう」と誘われました。お屋敷奉公をしょうと思っていた浪花千栄子さんは1度断ります。しかし、他に頼る人がいないためユリちゃんと一緒に無名のプロダクションへ入ることを決意しました。
女優への道
監督は親切な方だったのですが、映画を1本も撮ることもなくプロダクションが潰れてしまいました。そして、浪花千栄子さんは監督から紹介してもらった「村田栄子一座」へ入ることに。
その後、女優になりたいわけじゃなかったので女中として働いていましたが、仕事をよく覚えることから村田栄子さんの弟子にされてしまいます。弟子となった浪花千栄子さんがしていたのは、なかなか台詞が覚えられない村田栄子さんに舞台裏から台詞を教えるという仕事です。
そんなある日、村田栄子さんが急病になり、主演を務める舞台「正ちゃんの冒険」にあがれなくなりました。そこで代役に選ばれたのが、台詞を覚えていた浪花千栄子さんです!しかし、初めての舞台で頭の中は真っ白・・・台詞が出てこないので、舞台にある木やロープによじ登り誤魔化しました。
これが見に来ていた観客にウケ、舞台は大成功!浪花千栄子さんは看板女優へとなっていきました。それが面白くない村田栄子さんは当たりが厳しくなり、見かねた劇場の主人が「東亜キネマ」を紹介。そして、舞台女優から映画女優へとなっていきました。
松竹家庭劇
その後、紆余曲折を経て映画界を辞めた浪花千栄子さんは、舞台女優となり「松竹」の舞台に立つようになりました。しかし給料が安かったので、女優をしながら芝居喫茶「岡嶋」に住み込みで雇ってもらうことに。
1928年(昭和3年)、に曾我廼家十吾さん・渋谷天外さんが「松竹家庭劇」を結成し、”女優が足りない”ということで助っ人として参加。1930年(昭和5年)からは正式に「松竹家庭劇」へ配属されています。
渋谷天外さんとの結婚から離婚まで
「松竹家庭劇」へ配属された浪花千栄子さんは、23歳の時に渋谷天外さんと結婚。その後は、夫の渋谷天外さんが脚本を書いているため、良い役が貰えず人が嫌がる役ばかりやらされ女優として不遇の時代を迎えます。
1946年(昭和21年)に「松竹家庭劇」を脱退した渋谷天外さんと浪花千栄子さんは、劇団「すぃーとほーむ」を結成し、地方巡業をしていました。そんな中、1948年(昭和23年)に「曾我廼家五郎劇」と「松竹家庭劇」が合併し、「松竹新喜劇」を旗揚げ。この際、二人も松竹に呼び戻され旗揚げに参加しています。
しかし「松竹新喜劇」が軌道に乗り始めた頃・・・渋谷天外さんが、浪花千栄子さんの弟子・九重京子さんと不倫し、子どもができたと判明。浪花千栄子さんは看板女優となっていましたが「松竹新喜劇」を退団し、離婚しました!
渋谷天外さんは、九重京子さんと再婚後4カ月で家を購入しています。一方、浪花千栄子さんは尽くしてきたのに家を建ててもらえてなかったので、そのことを知り激怒しました。恨みを果たそうと考えた浪花千栄子さんは、土地を購入し旅館「竹生」を建設。そして、庭石の裏に”渋谷天外”と掘り、毎日踏みつけていたそうです!
「大阪のお母さん」に!
離婚して、芸能界からも身を引いた浪花千栄子さん。そんな浪花千栄子さんに声をかけたのが、NHK大阪放送局のプロデューサー・富久進次郎さんでした。
1952年(昭和27年)2月にNHKラジオの『アチャコ青春手帖』が始まったのですが、花菱アチャコさんの母親役が2回で降板。大阪弁が喋れて、アドリブに対応できる女優は浪花千栄子さんしかいないとなり、必死で探しだして『アチャコ青春手帖』の出演依頼をしたのです!
こうして浪花千栄子さんは、それをきっかけに花菱アチャコさんの母親役として出演し、大ヒットを記録。花菱アチャコさんとのコンビで「アチャコほろにが物語・波を枕に」「お父さんはお人好し」などに出演し「大阪のお母さん」と親しまれるようになりました。
晩年
映画やドラマなどで人気女優として活躍をしていた浪花千栄子さん。本名が「南口キクノ」だったので、”軟膏、効くの”というダジャレから『オロナイン軟膏』の看板にも起用されました。
その後も「祇園囃子」「夫婦善哉」「蜘蛛巣城」「宮本武蔵」「彼岸花」などに出演するなど、映画界でも活躍していましたが1973年12月22日、消化管出血のため66歳で亡くなっています。
浪花千栄子さんの家系図をチェック!
元夫:渋谷天外さん
手元にある、昭和35年1月の京都・南座での松竹新喜劇の公演プログラム。
渋谷天外(二代目)、曽我廼家明蝶、曽我廼家五郎八、石河薫が中心。天外と共に松竹家庭劇、松竹新喜劇を支えてきた曽我廼家十吾は同31年に退団し、翌32年に第2次 松竹家庭劇を旗揚げしていた。#新喜劇 pic.twitter.com/ChXVzR5biB— 西条昇の浅草エンタメ散歩 (@saijoasakusa) July 21, 2018
おちょやんに登場する天海一平の実在モデルです。
初代・渋谷天外さんの長男として、1906年(明治39年)6月7日に京都市で生まれました。本名は、渋谷 一雄(しぶやかずお)です。渋谷天外さんは8歳の頃、父親が主催する劇団「楽天会」の子役が亡くなったため、急遽代役として初舞台を踏むことになり役者デビューしました。しかし、10歳の頃に父親が死去してしまいます。
しばらく舞台から離れましたが、1922年(大正11年)に「志賀廼家淡海一座」へ加わり、曾我廼家十郎さんの勧めで脚本を書くようになりました。1928年(昭和3年)には、曾我廼家十吾さん・石川薫さんらと「松竹家庭劇」を結成し、翌1929年に”二代目・渋谷天外”を襲名。
戦後1946年(昭和21年)に「松竹家庭劇」を脱退し、劇団「すいーとほーむ」を結成。1948年(昭和23年)には「曾我廼家五郎劇」と「松竹家庭劇」が合併し、「松竹新喜劇」を旗揚げし中座で初公演を行います。その後は、藤山寛美さんとのコンビで人気を呼び、看板俳優・劇作家として舞台・映画・ラジオと喜劇一筋で活躍し続けました。
1965年(昭和40年)松竹新喜劇は盛り上がっていましたが、渋谷天外さんは公演中に倒れてしまいます。しかしその後、麻痺が残りながらも1967年には再び舞台復帰を果たしました。1982年(昭和57年)渋谷天外さんは、人間ドックを受けるために入院したのですが胃潰瘍による出血で危篤状態となります。そして、1983年(昭和58年)3月18日に心不全により76歳で死去しました。
弟や養女について!
浪花千栄子さんには弟がいますが、情報がなく詳しいことが分かりませんでした。ちなみに養女をいつ迎えたのかも不明です・・・。詳しい情報が分かれば追記します!
養女への遺言とは?
子どもに恵まれなかった浪花千栄子さんは、迎えた時期・現在については情報がありませんが輝美さんを養女に迎えています。
浪花千栄子さんは、そんな輝美さんに「私が息を引き取ったらすぐに、力いっぱい顔を叩いてくれ。そうすると血の気がのぼって綺麗になる。私は役者だから、お別れに来てくれた人にむさ苦しい顔を見せるのは失礼だ」という遺言を残しました。
なので、生前からビンタの練習をさせていたそうです。そんな遺言を守るため、輝美さんは浪花千栄子さんが亡くなってすぐ、泣きながらビンタをしています。そのため浪花千栄子さんの顔は血色がよく、まるで生きているようでした。
そして、浪花千栄子さんが建てていた旅館「竹生」は輝美さんが引き継ぎました!しかし、現在は廃業しているようです!
浪花千栄子さんの出演作は?
【映画】
●祇園囃子/お君
●女の園/鶴賀の小母さん
●山椒大夫/姥竹
●二十四の瞳/飯屋のかみさん
●近松物語/おこう
●夫婦善哉/おきん
●猫と庄造と二人のをんな/おりん
●蜘蛛巣城/物の怪の老婆
●彼岸花/佐々木初
●華岡青洲の妻/加恵の乳母
【ドラマ】
●東芝日曜劇場
●太閤記/大政所
●銭形平次
●大奥/藤岡
●大坂城の女/大政所
●まんまる四角/本田キヨ
●細うで繁盛記シリーズ/ゆう
大阪弁と軽妙な演技が話題となり、数々の映画やドラマに出演し地位を築いていった浪花千栄子さん。もっとたくさんの作品で活躍してほしかったですね!!
まとめ
今回は、「おちょやん」に登場する竹井千代の実在モデル・浪花千栄子さんの生涯について紹介しました☆華やかな女優さんだったのかなと思っていましたが、貧しさゆえに学校教育を受けられない・不倫され離婚などたくさん苦労していましたね・・・。そんな波乱万丈の生涯をおちょやんではどう描かれるのか注目しましょう♪
最後まで読んでいただき、ありがとうございました☆