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【ブギウギ】花田鈴子の実在モデル笠置シヅ子の生涯や家系図は?

連続テレビ小説109作目『ブギウギ』

戦後を明るく照らしたスター歌手の物語。ヒロイン・鈴子は、香川生まれの大阪育ち。銭湯の看板娘から、“ブギの女王”と呼ばれる戦後の大スター歌手となっていきます。そこで今回は、花田鈴子の実在モデル”笠置シヅ子”さんに注目してみます!

ハナ
ハナ
子どもはいたのかな?どんな暮らしをしていたのかな?気になるね!
サク
サク
よし、笠置シヅ子さんの生涯と家系図に注目してみよう☆

ということで今回は、花田鈴子の実在モデル「笠置シヅ子」さんの家系図や生涯について紹介します☆

笠置シヅ子さんの家系図をチェック!

本名は、亀井静子。戦前から戦後にかけて活躍し、戦後はブギの女王として一世を風靡しました。躍動感に乏しい楽曲と直立不動で歌うソロ歌手しか存在しなかった戦後の邦楽界に、躍動感のあるリズムの楽曲と派手なダンスパフォーマンスを導入したことで革命的な存在となった人物として有名です。

笠置シヅ子さんの生涯について!

誕生について

1914年8月25日に、香川県大川郡相生村(現:東かがわ市)黒羽で生まれた笠置シヅ子さん。

生後間もなく父親の三谷陳平さんが亡くなり、母親の谷口鳴尾さんは笠置シヅ子さんを連れて実家に戻りました。しかし母乳の出が悪かったため、谷口鳴尾さんは出産のために帰省していた米屋の妻・亀井ウメさんに沿い乳をお願いします。

そしてこの縁をきっかけに、笠置シヅ子さんは亀井家に引き取られることとなりました。亀井ウメさんが実子の正雄さんと共に笠置シヅ子さんを連れて大阪へ帰ると、ウメさんの夫・亀井音吉さんは「双子か?」と驚いたそうです。

三谷陳平さんは、代々砂糖を作っていた豪農の長男。母親の谷口鳴尾さんは、三谷家に住み込んでいましたが女中ではなく、三谷家の親戚筋の由緒正しい家系だったそうです。妊娠しても結婚が認められず、未婚のままの出産となりました。

亀井夫婦は香川県大川郡相生村の出身ですが、大阪に出て米屋「よろず屋(なんでも屋)」を営んでいます。

名前(芸名)について

本名が亀井静子と紹介しましたが、何度か改名しているので注目してみましょう。

笠置シヅ子さんは、亀井家の養子となった際「亀井ミツエ」と名付けられました。その後、小学校に入学した際に「亀井志津子」と改名し、さらに10歳の時「亀井静子」へと改名しています。

その後、「三笠静子」という芸名でデビューを果たしますが、1935年昭和天皇の末弟・澄宮崇仁親王が「三笠宮家」を創立したのを機に笠置シズ子」と改名。最後に女優活動に専念する際に「笠置シヅ子」と改名しました。

子ども時代は?

笠置シヅ子さんが養子として入った亀井家は、芸事が好きな一家でした。亀井ウメさんは、大人になり貧乏した時に困らないよう、笠置シヅ子さんが5歳の時から”日本舞踊”を習わせました。そうして、笠置シヅ子さんも芸好きな少女へと成長していきます。

ハナ
ハナ
この頃、三味線も習っていたんだって!
サク
サク
でも、活発だった笠置シヅ子さんは日本舞踊ばっかりしてたみたいよ!!

笠置シヅ子さんが10歳になったころ、米騒動に嫌気をさした亀井音吉さんが思い切って米屋を廃業し、近所に売りにでていた風呂屋(銭湯)を始めました。しかし、経営が上手くいかずに転々としていたため、笠置シヅ子さんは小学校を5回も変わり1927年に大正区の南恩加島尋常小学校を卒業。

松竹楽劇部に…

この頃の笠置シヅ子さんは、銭湯の脱衣場で歌や踊りを披露するようになっていました。そして1927年、宝塚音楽歌劇学校(現:宝塚音楽学校)を受験。歌・踊りは申し分ない実力を持っていましたが、背が小さい・極度の痩せ型だったため、過酷な宝塚生活に耐えられないのではと判断され不合格となりました。

落胆していた笠置シヅ子さんをみた近所のおばさんから「松竹楽劇部生徒養成所」(後の大阪松竹少女歌劇団)を勧められ、受験し合格。『日本八景おどり』娘役・”三笠静子”という芸名で初舞台を踏みました。

松竹楽劇部に入って半年は、先輩の部屋に入ります。笠置シヅ子さんは、先輩のお世話や雑用をテキパキとこなしていたため「豆ちゃん」と重宝され、欠員が出たときなどは代役に指名され舞台にたっていたそうです。

その後1933年に、『秋のおどり・女鳴神』での演技が好評を博し、トップスター10選に選ばれるなどスターの仲間入りを果たします。

養子だと知ることに

実の父・三谷陳平さんと実の母・谷口鳴尾さんの結婚を反対していた三谷陳平さんの母親が亡くなり、三谷家は没落。三谷陳平さんの父親は妻の死後、谷口鳴尾さんの出入りを許可していました。さらに養母の亀井ウメさんには、孫の笠置シヅ子さんを連れてくるよう頼みます。

亀井ウメさんは、帰省するたびに笠置シヅ子さんを連れて行っていましたが、養子ということがバレぬよう小学校に入学する頃からは三谷家を避けていたそうです。そのため、養子ということを知らないまま17歳になった笠置シヅ子さん。

親戚が営む旅館に滞在中、三谷家の親族に見つかってしまいます。そして親族は、三谷陳平さんの17回忌の法事に笠置シヅ子さんを参加させるよう言いました。亀井ウメさんは悩んだ末、笠置シヅ子さん一人で三谷家へと向かわせます。

この時はまだ親戚の法事と思っていたそうですが、法事に参加していた人たちが話していたことが気になり、笠置シヅ子さんは叔母に問いただしました。そして自分が養女という事、実の母親が近所に住んでいる事を知ります。

笠置シヅ子さんは悩むに悩み、会うことを決意。教えてもらった住所に行くと5~6歳くらいの男の子を連れた谷口鳴尾さんが…。結局、お互いに名乗ることはなかったそうです。

歌手デビュー!!

1937年、大阪松竹少女歌劇団の東京公演で東京松竹の関係者の目に止まり、1938年に帝国劇場で旗揚げした「松竹楽劇団(SGD)」に参加。そして、ジャズシンガーとしての才能を開花させ、「スウィングの女王」と呼ばれるように。

そして、劇団の副指揮者として在籍していた作曲家・服部良一と出会い、コロムビアレコードから『ラッパと娘』で歌手デビューを果たしました。しかし、「贅沢は敵だ」をスローガンとしていた時代に、3cmもある長い付け睫毛に派手な化粧と身振りが警察から睨まれることとなり、丸の内界隈の劇場への出演を禁じられてしまいます。

そんな中、笠置シヅ子さんは松竹の『弥次喜多大陸道中』で映画初出演し、女優としての活動もスタートさせました。

楽団の解散

1941年に「松竹楽劇団(SGD)」が解散。「笠置シズ子とその楽団」を結成して慰問活動などを行いますが、”敵性歌手”に指定されていたことから戦地での慰問興業に参加できず、地方巡業や国内の工場慰問で活躍。

戦後にヒットした『アイレ可愛や』は、テーマを南方にしたことによって難を逃れたステージ用の楽曲で、笠置シヅ子さんは兵隊や軍需工場の慰問で好んで歌っていました。1943年には、マネージャーが勝手に楽団を売却し「笠置シズ子とその楽団」も解散となります。

“ブギの女王”の誕生

1945年10月、日劇のショー『踊る漫画祭・浦島再び龍宮へ行く』で歌った『東京ブギウギ』が大ヒット。以後、『大阪ブギウギ』や『買物ブギ』など一連のブギものをヒットさせ”ブギの女王”と呼ばれるようになりました。

笠置シヅ子さんは、東海林太郎さんや淡谷のり子さんなど歌を重視する従来の歌手とは異なり、派手なアクションと大阪仕込みのサービス精神にあふれていて、かなり斬新なスタイルでした。

『ヘイヘイブギ』では笠置シヅ子さんが「ヘーイ・ヘイ」と客席に歌いかけると観客が「ヘーイ・ヘイ」と唱和し、文字通り舞台と客席が一体となるパフォーマンスを繰り広げていました。「ホームラン・ブギ」では高下駄で応援団長の扮装で登場。しかし、勢いあまって客席に転落する事故も…。

榎本健一さんとのコンビでは多くの映画に出演し、その明るいキャラクターで大活躍しています。

歌手廃業を宣言!

ブギが下火となった1956年、笠置シヅ子さんは歌手廃業を宣言しました。廃業の理由は『太りかけたから』と告白しています。自分の一番いい時代を自分の手で汚す必要は無い」との考えです。

笠置シヅ子さんはその年のNHK紅白歌合戦に出場し、大トリで『ヘイヘイブギ』を歌い、歌手活動から引退しました。その後は、女優活動に専念。得意の大阪弁を生かした軽妙な演技で多くの作品に出演しています。

1967年からは『家族そろって歌合戦』の審査員、1971年からはカネヨ石鹸の台所用クレンザー「カネヨン」CMのおばさんとして親しまれました。

晩年

1981年、笠置シヅ子さんに乳癌が見つかります。その後、手術に成功したものの1983年に癌が卵巣に転移していることが発覚。翌年の1984年9月に再入院し、闘病生活を送っていました。

しかし1985年3月30日午後11時43分、卵巣癌のため中野区の立正佼成会佼成病院で死去。享年70でした。病床で自分の役をテレビで演じている研ナオコさんを見ながら「日劇時代は楽しかったね」とポツリと呟いたのが最期の言葉だったそうです。

笠置シヅ子さんの結婚について

吉本穎右さんとの出会い

名古屋の太陽座で公演していた俳優・辰巳柳太郎さんの楽屋に挨拶のため訪問した笠置シヅ子さん。その時に、吉本興業の興業者・吉本せいさんの次男・吉本穎右さんと出会いました。笠置シヅ子さんのファンだった吉本穎右さんと、美男子好きだった笠置シヅ子さんは程なくして結ばれ、1944年に結婚の約束を交わします。

翌年、東京大空襲で自宅を焼失した二人は同棲を開始。そして笠置シヅ子さんは、再開場した日本劇場の戦後第1回公演『ハイライト』に出演し、戦後の活動をスタートさせました。

妊娠発覚から出産まで

1946年10月、妊娠が発覚。吉本穎右さんは子供の認知と、吉本家の理解を得たうえで入籍することを約束しましたが、吉本穎右さんを吉本興業の後継者に待望していた母・せいさんは笠置シヅ子さんを気に入らず、断固として結婚を認めませんでした。

その頃、幼少の頃から病弱だった吉本穎右さんは結核を発症。笠置シヅ子さんは舞台『ジャズカルメン』に主演中で、この舞台を最後に芸能界を引退するつもりでした。しかし、1947年5月19日に吉本穎右さんが24歳の若さで病没。

1947年6月1日、笠置シヅ子さんは吉本穎右さんが着ていた丹前を握りしめながら女児を出産しました。吉本穎右さんの遺言に従い、エイ子と名付けられています。その後、服部良一さんや榎本健一さんをはじめとした周囲の励ましもあり、歌手生活の続行を決意しました。

まとめ

今回は、「ブギウギ」に登場する花田鈴子の実在モデル・笠置シヅ子さんの生涯について紹介しました☆”東京ブギウギ”で一世を風靡した戦後の大スター・笠置シヅ子さんをモデルにした「ブギウギ」!どう描かれるのか注目しましょう♪最後まで読んでいただき、ありがとうございました☆