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【らんまん】実在モデル牧野富太郎の生涯に注目!家族の現在は?

連続テレビ小説108作目『らんまん』

愛する植物のために一途に情熱的に突き進んだ主人公・槙野万太郎と、その妻・寿恵子の波乱万丈な生涯が描かれます。そこで今回は、槙野万太郎の実在モデル”牧野富太郎”さんに注目してみます!

ハナ
ハナ
牧野富太郎さんは、日本の植物学の父と言われているよね☆
サク
サク
よし、実在モデルの”牧野富太郎”さんがどんな人生を歩んだのかみてみよう!

ということで、槙野万太郎の実在モデル「牧野富太郎」さんの生涯や家族の現在について紹介します☆

牧野富太郎さんの生涯について!

牧野富太郎さん誕生

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1862年5月22日(文久2年4月24日)に土佐国佐川村(現:高知県高岡郡佐川町)で、酒造と雑貨を営む裕福な商家「岸屋」の一人息子として生まれました。幼名は”成太郎(誠太郎)”。

牧野富太郎さんは3歳で父・佐平さん、5歳で母・久寿さんを亡くしています。そして、6歳の頃には祖父・小左衛門さんが亡くなりました。その後、体の弱かった牧野富太郎さんは、祖母・浪子さんによって大切に育てられ、「富太郎」に改名しています。

ハナ
ハナ
祖母の浪子さんは、祖父・小左衛門さんの後妻だよ!
サク
サク
両親共に30代の若さで他界…流行っていたコレラが原因みたい。

10歳から寺子屋へ

牧野富太郎さんは、10歳のころから土居謙護さんが教える寺子屋で習字を習い始めました。11歳からは伊藤蘭林さんの塾で漢学や算術などを教わって、その後は伊藤蘭林さんが教授をしていた「名教館」で学んでいます。

名教館は家臣の子どもたちが学ぶ場であり、講義は算数・武術・兵学・茶道・書道・文学など多岐にわたる内容で当時の土佐藩でもトップクラスのものだったようです。

牧野富太郎さんは、英語塾にも入り英語も学びました。

小学校へ入学

1874年、名教館は学制改革により校舎はそのままに「佐川小学校」となりました。そして、牧野富太郎さんも12歳の頃に小学校へ入学。すでに高等な学科を学んでいましたが、五十音からめて習い、単語・連語・その他色々のものを掛図について習います。

小学校は上等・下等の二つに分かれていて、それぞれ8級ずつありました。級をあげるには試験で上に進級し、臨時試験を受けて早く進むことも可能でした。牧野富太郎さんは、1876年14歳のころに下等の一級まで進みましたが、嫌になって退校してしまいました。

小学校を中退した理由は…造り酒屋の跡取りだったので、小学校などで学業を修め学問で身を立てることは全く考えていなかったからです。

佐川小学校の臨時教員に

小学校を退学後、酒屋は祖母と番頭に任せ、気ままな生活を送っていた牧野富太郎さん。植物が好きで、よく植物を採ったり見たりしてすごしていましたが、1877年15歳のころに佐川小学校の「臨時教員(授業生)」となりました。

給料は月3円。明治時代の1円は、今の約3,800円。公務員の初任給は月に8~9円で、大工や工場のベテラン技術者の平均月収は20円程だったそうです。

そして、植物の採集・写生・観察などの研究を続けながら教壇に立っていた牧野富太郎さんは、高知から来ていた英学の先生「長尾長」「矢野矢」さんから英語を学びます。その頃、地理学にも興味をもっていて、世界の地図を作ろうと考えたこともあったそうです

そんな牧野富太郎さん、学問をするにはこのままじゃいけないと感じ、小学校の臨時教師の職を辞し高知へ出ました。

永沼小一郎さんとの出会い

高知へ行った牧野富太郎さんは、弘田正郎さんの「五松学舎」という塾に入りました。しかし漢学が盛んで、あまり講義を聴きに行かなかった牧野富太郎さん。その頃、植物・地理・天文の本を見て興味をもち、勉強していたようです。ただ、数ヵ月いるうちにコレラが流行し、佐川に帰ることとなりました。

その後17歳になった牧野富太郎さんは、高知師範学校の教師・永沼小一郎さんと出会い、欧米の植物学に触れ当時の著名な学者の知己も得るように。

永沼小一郎さんは西洋語も多少できる人で、科学のことや植物のことにも詳しかったそうです。また、ベントレーの植物の本を訳したり、バルホアーの『クラスブック・オヴ・ボタニイ』という本の訳もし、それを見せてもらっていました。

永沼小一郎さんは、牧野富太郎さんの人生に大きな影響を与えた存在となりますが、土佐を去ったあとに東京で亡くなっています。

初めて東京へ

牧野富太郎さんは1881年19歳の頃、第2回内国勧業博覧会見物と書籍や顕微鏡購入を目的に、番頭の息子と会計係の2人を伴い初めて上京しました。

東京に着き目的を果たすと博物局へ行き、田中芳男さんと出会います。博物局では小野職愨さんや小森頼信さんという植物関係の人にも会い、植物園を見せて貰ったりしました。

その後、日光などで植物採集し帰郷。高知県西南部でも植物採集を行いました。

自由党から脱退

1882年頃になると自由党が盛んで、土佐の人々は板垣退助さんを筆頭に自由民権運動を行っていました。牧野富太郎さんも懇親会に参加するなど熱心な自由党の一員でした。

しかし、政治で身を立てるわけではないから”学問に専心し国に報ずるのが私の使命”と考え、自由党から退きます。

その後2年間は、科学のために演説会を開催したり、近傍に採集に出掛けたり、採集物を標品にしたり、植物の図を画いたりして暮らしていました。

再び東京へ

1884年22歳の頃、植物学を志し2度目の上京。そこで帝国大学理科大学(現:東京大学理学部)植物学教室の矢田部良吉教授を訪ね、同教室に出入りして文献・資料などの使用が許可され研究に没頭しました

そんな牧野富太郎さんは、東京の生活が飽きると郷里へ帰り、郷里の生活が退屈になるとまた東京へという生活を繰り返します。

この頃、祖母・浪子さんが78歳で病死。浪子さんは、祖父・小左衛門さんの後妻で血のつながりはありませんでした。

植物学雑誌を創刊

1887年25歳の時、大久保三郎や田中延次郎・染谷徳五郎らと共同で『植物学雑誌』を創刊。続いてその翌年、『日本植物志図篇』を刊行しています。

植物の図や文章をかくことに支障はなかった牧野富太郎さん。しかし、郷里で出版するには自分で印刷の技術を心得ていなければと思い、一年間小さな石版屋で石版印刷の技術を習得しています。

新種の植物を発見


1889年27歳の時に新種の植物を発見。『植物学雑誌』で発表し、日本ではじめて新種の「ヤマトグサ」に学名をつけました。1890年28歳のときには東京の小岩で、分類の困難なヤナギ科植物の花の標本採集中に、見慣れない水草を採集。

それは、世界的に点々と隔離分布する「ムジナモ」でした。日本では新発見であり、そのことを正式な学術論文で世界に報告したことで、世界的に名を知られるようになりました。

この時、小澤寿衛子さんと結婚し、大学至近の根岸に一家を構えています。

駒場の農科大学へ

世界的に名を知られるようにななった牧野富太郎さん。しかし、矢田部教授から突然、植物学教室の出入りを禁じられ、研究の道が断たれてしまいました。そのため、『日本植物志図篇』の刊行も六巻で中断してしまいます。矢田部教授は「自分も、日本植物志を出版しようと思うから、今後は教室の書物も標品も見せる事は断る」と言っていたようです。

失意の牧野富太郎さんは、自身に厚意を持っているマキシモヴィッチさんを頼り、ロシアに渡って研究を続けようと考えますが、1891年にマキシモヴィッチさんが死去したことにより、実現しませんでした。

郷里の高知に帰郷した牧野富太郎さんは、地元の植物の研究をしたり、西洋音楽会を開いて自ら指導し、時には指揮者として指揮棒を振ったりしていましたが、池野成一郎さんらの助力によって、駒場の農科大学(現:東大農学部)で研究を続けることができるようになりました。

帝国大学理科大学の助手に

1893年31歳の頃、矢田部教授が退任。牧野富太郎さんは、東京帝国大学理科大学の主任教授となった松村任三先生から呼び戻される形で助手として、はじめて大学の職員につらなることになりました。

しかしその時には、生家は完全に没落。助手の月給十五円で一家を養っていましたが、月給だけで暮らすことは容易な事ではなく、止むなく二千円余りの借金をしています。

その後も、各地で採集しながら植物の研究を続け、多数の標本や著作を残していく牧野富太郎さん。1900年からは、未完に終わった『日本植物志図篇』の代わりに新しく『大日本植物志』を刊行。今回は自費ではなく帝大から費用が捻出され、東京の大手書店・出版社であった丸善から刊行されました。ただ、松村任三先生の妨害により、4巻で中断しています。

理学博士の学位を受ける

1912年50歳の頃から1939年77歳まで、東京帝国大学理科大学の講師を勤めた牧野富太郎さん。この間、学歴を持たず権威を理解しない牧野富太郎さんに対し、学内から何度も圧力がありましたが、帝大に必要な人材とされ計47年間、大学に留任しています。

1927年65歳の時には、東京帝国大学から理学博士を受けました。論文の題は「日本植物考察(英文)」。同年に発見した新種のに翌年死去した妻・寿衛子さんの名をとって「スエコザサ」と名付けています。

東京帝国大学を辞任

1936年に50年間の研究集大成として『牧野植物学全集』を刊行。それに対し、「朝日文化賞」が贈られました

1940年77歳の時に、東京帝国大学へ辞表を提出し講師を辞任しています。翌年には、研究の集大成である「牧野日本植物図鑑」を刊行。この本は改訂を重ねながら現在も販売され続けています。

晩年

思い出深い大学を辞め、自分の思うように使える研究の時間が多くなったことは何より幸いと語っている牧野富太郎さん。この後どのように過ごしていたのか、時系列で紹介します。

●1949年87歳:大腸カタルで一旦危篤状態となりますが、回復。
●1950年88歳:日本学士院会員となります。
1951年89歳:文部省から30万円の補助金を得て、標本整理が行われました。第1回文化功労者の対象者となっています。
●1952年90歳:佐川の生家跡に「誕生の地」の記念碑が建ちました。
●1953年91歳:東京都名誉都民になりました。
●1954年92歳:風邪をこじらせ肺炎となり、寝込むことが多くなりました。
●1956年94歳:「植物学九十年」「牧野富太郎自叙伝」を刊行。また、高知県佐川町の名誉町民となりました。牧野植物園が設立されることが決定。
●1957年94歳:1月18日に永眠。東京都谷中の天王寺墓地に埋葬され、郷里の佐川町にも分骨されています。没後、文化勲章を授与されました。
●1958年4月:高知県に高知県立牧野植物園が開園しました。

生涯で収集した標本は約40万枚といわれている牧野富太郎さん。新種や新品種など1500種類以上の植物を命名し、日本の植物分類学の基礎を築いた一人としても知られています。

家族や家族の現在に注目!

牧野富太郎さんは、1888年26歳の時に寿衛(すえ)さんと結婚し、13人の子どもを授かっています。

小澤寿衛子さん

寿衛子さんの父親は、彦根藩主井伊家の臣で小沢一政さん。陸軍の営繕部に勤務していました。母親は京都出身の方で、寿衛子さんはその末っ子でした。寿衛子さんが子供の頃は、踊りを習ったり唄のお稽古をしたり、裕福な生活をしていました。

しかし、父・小沢一政さんが亡ってからは、家も財産も失くします。そのため、飯田町で母たちと小さなお菓子屋さんを営んでいました。牧野富太郎さんは、大学へ行く時にそのお店の前を通りながら寿衛子さんを見ていたそうです。

寿衛子さんは、1928年2月23日55歳で永眠。病原不明で治療のしようもなかったそうです。その時、牧野富太郎さんは新種の笹に「すえこざさ」と命名しました。

ハナ
ハナ
借金ができても嫌な顔一つせず、一言も文句をいわずに古いつぎはぎだらけの着物を着ながら、牧野富太郎さんを支えていたんだって!
サク
サク
寿衛子さんの優しさ・強さが伝わってくるね!

もう一人妻が?!

寿衛子さんと結婚をした時点で、牧野富太郎さんには郷里の土佐に妻がいたという話もあります。

最初の妻と言われているのは、牧野富太郎さんの従妹で三歳下の牧野猶さん。高知県立女子師範を卒業している才媛。祖母の浪子さんが、家業の安泰のために早くから二人を結婚させるつもりだったそうで、牧野富太郎さんが知らない間に結婚の準備を進められていました。

牧野富太郎さんに代わって家業を切り盛りしたのも、浪子さんを献身的に看病したのも、看取ったのも、葬儀を仕切ったのも猶さんでした。しかし、祖母が他界した2年後、猶さんを実家に残したまま、牧野富太郎さんは寿衛子さんと結婚したそうです。

その後、次々に子どもが生まれる牧野富太郎さんと寿衛子さんの家庭は慢性的な財政難に…。しかし、土佐の岸屋も牧野富太郎さんへの送金(旅費や自費出版の費用)で借金がかさみ、店を売り払うことになったのです。

岸屋が財政破綻した後、ようやく猶さんと離婚。猶さんは番頭の和之助さんと再婚しましたが、その後も寿衛子さんは連絡を取り合って、寿衛子さんの子どもたちに衣服やカルタを送ったり、婚礼の相談に乗ってやったりしていたそうです。

子どもは13人!

牧野富太郎さんと寿衛子さんの子どもは13人ですが、そのうちの7人が早くに亡くなっています。

●長女/香代さん
1893年1月に東京で病死しています。

●次女/鶴代さん(1898年5月12日)
1898年5月12日に誕生。弁護士、無産運動家・額賀二郎さんと19歳の時に結婚し、2男1女をもうけましたが離婚し実家に戻っています。母・寿衛子さんが亡くなってからは、牧野富太郎さんの研究と生活を支えています。

牧野富太郎さんが亡くなった後は、約4万5000冊の蔵書を牧野富太郎のふるさと高知県の牧野植物園に寄贈・植物標本は都立大学(現:首都大学東京)に寄贈・東京練馬区の居宅を東京都に寄贈しました。

●長男・春世さん

●次男・百世さん

●三男・勝世さん

●三女・己代

●四女・玉代さん
1910年9月10日に誕生。川村女学院卒。五交商事、日本造型各元会長・岩佐喜七さんと結婚。1936年6月9日に娘・岩佐まゆみさんが誕生(成蹊学園卒)。養子・岩佐吉晃さんを育てています(成蹊大学卒・日本石油ガス勤務)。

孫の牧野一浡さん

戦後間もない1946年に生まれた牧野一浡さんは3歳で母を亡くし、牧野富太郎さんの次女鶴代さんに育てられました。当時、鶴代さんは牧野富太郎さんの身の回りのお世話をしていたので、牧野一浡さんも晩年の牧野富太郎さんと一緒に暮らしています。

小学1年生のときから登校拒否児だった牧野一浡さん。「行ってきます」と言って家を出ますが、学校に行かずに近所で遊んでいたそうです。

祖母・鶴代さんは、1958年に開園した「牧野記念庭園」や高知の「牧野植物園」、東京都立大学の「牧野標本館」の設立にも大きく貢献。鶴代さんは亡くなる間際に、『私がやってきたことをあなたが受け継いで』と牧野一浡さんに言ったそうです。

その後、結婚をしてサラリーマンとして働いていた牧野一浡さん。定年退職・記念館の建て替え・蒐集品の発見が重なったのをきっかけに、学芸員の資格を習得。リニューアルオープンした「牧野記念庭園」の運営に携わるようになりました。

まとめ

今回は、「らんまん」に登場する槙野万太郎の実在モデル”牧野富太郎”さんについて紹介しました☆日本の植物学の父と言われている牧野富太郎さんをモデルにどう描かれるのか、楽しみですね。ぜひご覧ください♪最後まで読んでいただき、ありがとうございました☆