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エール/双浦環の実在モデル三浦環の生涯!夫や子どもの現在は?!

連続テレビ小説102作目『エール』

双浦環を演じる”柴咲コウ”さんが第7回で初登場し、話題を呼びましたね!美しすぎる姿と歌唱力に魅了された方が多いと思いますが、そんな双浦環の実在モデル・三浦環さんはどんな人物だったのか注目していきます♪

ハナ
ハナ
柴咲コウさんは、2019年7月初めから歌唱指導の先生のもとでレッスンを開始したんだって!
サク
サク
ポップスとは発声法が全然違うだろうし、大変だっただろうね!

今回は、双浦環の実在モデル・三浦環さんの生涯・家族・三浦環の像について紹介します☆

三浦環さんの生涯について!

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幼少~学生時代

1884年2月22日、東京府東京市京橋区(現:東京都中央区内の京橋地域)で生まれました!父親は、静岡県城東郡下朝比奈村(現:御前崎市)出身の公証人・柴田孟甫さん(本名:熊太郎)、母親は城東郡小沢村(現:菊川市)出身の永田登波さんです。

3歳の頃から日本舞踊、6歳の頃から長唄と箏を習い始めた三浦環さんは『虎ノ門の東京女学館』に入学します!そこで音楽教師・杉浦チカさんから音楽家になることを強く勧められ、1900年(明治33年)に東京音楽学校に入学しました。

滝廉太郎さんからピアノ・幸田延さんから声楽を習っていた三浦環さんは、1903年(明治36年)7月23日に奏楽堂で開催された日本初のオペラ公演・グルックの「オルフェオ」で主役のエウリディーチェを演じて成功を収めます。1904年(明治37年)には奨学金を得て「研究科」に進み、授業補助として声楽を教えるようになり、その後は助教授になりました。

世界デビュー?!

1914年にドイツ留学し「本場のヨーロッパでオペラの勉強がしたい」という夢が実現。そして、リリー・レーマンさんに師事しまが第一次世界大戦の戦火を逃れてイギリスに移動することとなります。

そんな三浦環さんは、イギリスを代表する指揮者サー・ヘンリー・ウッドさんに認められ、収容2万3千人を誇るロンドン最大「アルバートホール」で日本人初出演で世界デビュー!「リゴレット」のアリア”慕わしき御名”を熱唱すると、大きな拍手とアンコールが起き、「サクラサクラ」「ほたる」の2曲を歌いました。

その模様は世界中に報道され、「マダム・ミウラはメルバやカルヴェにもひけを取らぬ美しい声と芸術性をもった歌手である」と絶賛されたのです!

「マダム・バタフライ」プリマドンナ誕生?

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1915年(大正4年)5月、ロシア人のテノール歌手兼マネージャーのウラジミール・ロージンさんから、『ロイヤル・オペラ・ハウスで”マダム・バタフライ(蝶々夫人)”を上演するから蝶々さんで出演してもらえませんか』と依頼され承諾!

日本人のオペラ歌手が「ロイヤル・オペラ・ハウス」で日本を題材にした公演を行うとあって話題を集めました!そして、イギリス国王ジョージ5世も臨席するなか、蝶々さんを見事に表現して、大成功を収めます。その後アメリカに渡り、ニューヨークのメトロポリタン歌劇場に招かれ、世界的テノール歌手のエンリコ・カルーソさんと「マダム・バタフライ(蝶々夫人)」で共演しました。

アメリカ・ヨーロッパでの活躍!

1915年(大正4年)10月、シカゴのオーディトリアム劇場でオペラ「マダム・バタフライ(蝶々夫人)」に出演し、アメリカデビューを果たしました。

ヨーロッパでは、モンテカルロ・バルセロナ・フィレンツェ・ローマ・ミラノ・ナポリで公演し、ローマでは作曲家のプッチーニさんから「あなたこそ最高の『マダム・バタフライ』プリマドンナだ」と大絶賛されています!

「マダム・バタフライ」とは
ジャコモ・プッチーニさんが明治初年の日本を舞台に「ラ・ボエーム」「トスカ」に続いて作曲したオペラとなります!15才でアメリカ海軍中尉ピンカートンの妾となった蝶々夫人がその愛に破れ自刃に至るという物語です。

日本に帰国~晩年

1935年に、シチリア島で『蝶々夫人』出演2000回を達成したのをきっかけに、日本に帰国。 その頃、古関裕而さんの「船頭可愛いや」がヒットしていていました!偶然「船頭可愛や」を聴いた三浦環さんは、「これは素晴らしい。ぜひ私も歌ってレコードに入れたい」と頼み、レコードに吹き込みました!

古関裕而さんと金子さんは、三浦環さんの大ファンで「月のバルカローラ」もプレゼントしています!そんな三浦環さんは「月のバルカローラ」もレコードに吹き込みました。こうして古関夫妻と三浦環さんは交流を持つようになり、一緒に相撲観戦したりしています。

太平洋戦争の激化から、1944年3月に山梨県の山中湖に疎開した三浦環さんは、母親の登波を看病しながら、地元民と気さくに交流したり、疎開してきた多くの文化人らとの語らいを楽しんだりしていました!

三浦環さんは戦後も”リサイタルやNHKの録音”の仕事をこなしていましたが、急激に衰えていき、1946年5月26日に膀胱癌で息を引き取りました。

夫や子どもの現在は?

1人目:藤井善一さん

東京音楽学校入学直前に、父・柴田孟甫さんの勧めで陸軍三等軍医正の藤井善一さんと結婚しました!※柴田孟甫さんは、三浦環さんが”西洋の芸者”になることに反対!しかし、縁談を受け入れることで、東京音楽学校への進学が許されたのです。

軍医の藤井善一さんは中国へ配属され、三浦環さんは東京音楽学校え進学ということで別居でした!さらに、校則違反になる恐れもあったので周囲には秘密にしていました。卒業した後、藤井善一さんは東京勤務となり帰国し同居スタート!

しかし、三浦環さんが東京音楽学校で音楽の研究に励みながら、声楽を教えていたころ藤井善一さんの仙台勤務が決定します。藤井善一さんは夜遅くまで仕事をしている三浦環さんを連れていこうとしましたが、三浦環さんが断ったことから離婚することに。

有名歌手が離婚ということで注目され、ゴシップ記事などが出たりと世間を騒がせました。その他、ピアノの師匠・瀧廉太郎さんからのプロポーズなども話題となっています!

二人目:三浦政太郎さん

1913年(明治46年)9月、三浦環さんは遠い親戚の三浦政太郎さんと再婚します。三浦政太郎さんは東京帝国大学医学部で助手を務めていて、三浦環さんの音楽活動に対しても理解ある人でした。

結婚を機にシンガポールの「三井ゴム園病院」院長に就任した、三浦政太郎さん!1914年には夫婦でドイツ留学し、三浦環さんは「本場のヨーロッパでオペラの勉強がしたい」という夢が実現しました。しかし、翌年に第一次世界大戦が勃発したのにでイギリスへ!

三浦環さんは、「ロイヤル・オペラ・ハウス」の舞台『マダム・バタフライ』に蝶々さん役で大きな話題となります。1921年(大正10年)に三浦政太郎さんは帰国しますが、三浦環さんは世界的なプリマドンナとして活躍し、別居を続けました!

その後、三浦環さんは「マダム・バタフライ(蝶々夫人)」を止め、愛人・フランケッティのオペラ「浪子さん」を上演するように!しかし、弟子にフランケッティを寝取られ結婚したため、再び「マダム・バタフライ(蝶々夫人)」を上演しました。

失意に陥っている三浦環さんに、三浦政太郎さんが亡くなったという電報が。プリマドンナとして活躍したくさんの人を喜ばせることが三浦政太郎さんの供養になると考え、帰国しませんでした。

子どもはいる?!

三浦環さんに子どもはいるのか検索してみましたが、詳しい情報はありませんでした!一人目の藤井善一さん、再婚した三浦政太郎さんとの間に子どもはいないという可能性が高そうです。情報があれば追記します!

三浦環像って?!

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1992年に帰国した際、長崎に留まり、蝶々夫人とゆかりの土地を訪ね歩いたそうです。日本が生んだ世界的プリマドンナ三浦環さんは、イタリアの作曲家ジャコモ・プッチーニさんが長崎を主題としたオペラ「マダムバタフライ(蝶々夫人)」を30年の長きにわたり世界各国で歌い続け美しい名曲を通じて、広く海外に日本婦人の愛の美徳を紹介しました。その功績をたたえるためプッチーニ肖像とともに、三浦環の立像を建立して永く後世に伝えるものとされています。

グラバー園
住所:長崎県長崎市南山手町8-1
アクセス:長崎駅から路面電車で10分– 大浦天主堂下下車から徒歩で5分

まとめ

今回は、双浦環の実在モデル・三浦環さんについて紹介しました!三浦環さんはモテていたようで、滝廉太郎さん・野口英世さんらと不倫関係にあったという説もあります。しかし、オペラ歌手としては、かなりスゴい人なんだなと改めて思いました!

柴咲コウさんが演じる「双浦環」は実在人物をモデルとしていますが、キャラクターはエールのオリジナルキャラクターとなっています!!三浦環さんに負けない、柴咲コウさんの美声を楽しみましょう!最後まで読んでいただき、ありがとうございました☆