朝ドラ

エール/村野鉄男のモデルは作詞家の野村俊夫!家族や作品も紹介!

NHK連続テレビ小説102作目『エール』

昭和という激動の時代に、人々の心に寄り添う曲の数々を生み出した作曲家・古山裕一とその妻・関内音の物語です。今回は、そんな裕一と幼なじみでのちの音楽仲間となる村野鉄男の実在モデル・野村俊夫さんに注目します☆

ハナ
ハナ
村野鉄男を演じるのは、中村蒼さんだよね☆
サク
サク
ケンカが強く近所のガキ大将って役だけど、野村俊夫さんもガキ大将なのかな?

ということで、実在モデル・野村俊夫さんの生涯について・家族や子供たちについて・主な作品についてなどを紹介します♪

『野村俊夫』さんの生涯について!

名前:野村俊夫(のむらとしお)
本名:鈴木喜八(すずききはち)
生年月日:1904年11月21日
出身:福島県福島市

野村俊夫さんは、福島県福島市大町で、魚屋「魚忠」の三男(男6人・女5人で上から4番目)として誕生しました!近所には作曲家古関裕而さんが住んでいて、子供の頃はよく遊ぶ仲でした。しかし、父・忠八さんが相場に手を出し、失敗したため引っ越すことに。

野村俊夫さんは「福島市立第一小学校」を卒業し「福島商業学校」へと進学しますが、病気や家庭の事情により中退。その後は、福島県の富豪・角田林兵衛の家に奉公へ出ました。しかし、勉強していたことがバレてクビに・・・

実家の手伝いをしていた野村俊夫さんは、1924年・20歳の時に「福島民友新聞社」に入社し、編集部・報道部・文芸欄を担当します。「福島ハーモニカ・ソサエティ」との関係で、古関裕而さんと再会し、野村俊夫さんが作曲した「福島行進曲」に古関裕而さんが曲を付けました。

1929年(昭和4年)、古関裕而さんが作曲した管弦楽のための舞踊組曲『竹取物語』が、ロンドンのチェスター楽譜出版社募集の作曲コンクールで2位に入賞しました。

1931年(昭和6年)に古関裕而さんが日本コロムビア専属の作曲家となり、誘いを受けた野村俊夫さんは新聞社を辞め上京しました。

そして、古関裕而さんと組んだ「福島行進曲」がレコードで発売。野村俊夫さんは、この頃からフリーの作詞家として本格的に活動を開始します。1939年、作詞した「上海夜曲」が藤山一郎さんのコロムビア復帰第1作目としてヒットし、コロムビア専属作詞家となりました。

1940年(昭和15年)に「暁に祈る」がヒット!「暁に祈る」は、作詞:野村俊夫さん・作曲:古関裕而さん・歌:伊藤久男さんで、3人とも福島出身だったことから「福島トリオ」「福島三羽カラス」と呼ばれるようになりました!

1951年頃からは、日本音楽著作権協会の理事も務めていました。61歳で辞任した野村俊夫さんは、1966年に十二指腸潰瘍の手術を受けます。しかし、術後に腸閉塞を発症し1966年10月27日に死去しました。

『野村俊夫』さんの家族は?

野村俊夫さんの妻ってどんな人?

福島民友新聞時代に交際していた野村ハツさんです!
1931年(昭和6年)野村俊夫さんは、ハツさんを福島に残し上京します!そして、1935(昭和10年)には、ハツさんを東京に呼び結婚しました!

長男・鈴木克東さんによると、「あまり外へ出掛けたがらない」タイプとのことです!

子どもは?

●次女が昭和13年頃に誕生
※生まれた順で言うと、長女(則子さん?)・次女(テウさん?)・長男(鈴木克東さん)です
次女は結婚している。
●「湯の町エレジー」がはやったころは、長女が学校で「エレジー」と呼ばれ、いじめられたことがあった。
●戦時中は、母親の実家があった伊達市富成に疎開していた。

分かったのはこれくらいでした!家族についての情報はあまり公表していないのかもしれませんね。新しい情報が分かり次第、追記します!

長男(鈴木克東さん)から見た野村俊夫さん♪

家庭では、子どもたちを大事にしてくれた
小さな頃から福島や栃木県那須市の温泉に連れて行ってくれて、楽しく過ごした
●仕事をするのはほとんど夜中。昼はよくパチンコをやりながら、突然詩を書き出す、どこでも作品のことを考えていたと思います。
●お酒は強く、タバコも吸っていました。家ではあまり飲まず、外で知人を呼んで酒を飲み、交友を楽しんでいました。伊藤久男さんと大酒を飲み、熱海まで行ったというエピソードも!

サク
サク
巨人が大好きで、負けると機嫌が悪くなってたんだって(笑)

野村俊夫さんの弟は戦死?!

「東京だョおっ母さん」

島倉千代子さんが歌い大ヒットした「東京だョおっ母さん」!!この曲も、野村俊夫さんが作詞した代表曲ですね。実は・・・「久しぶりに手をひいて」で始まる歌詞には、太平洋戦争の「ガダルカナル島の戦い」で戦死した弟・鈴木忠治郎さんに対する、哀悼の思いが込められていたのです。

ガダルカナル島の戦いって?!

南太平洋を戦場に、1942年8月から1943年2月まで続けられた「ガダルカナル戦」。日本軍は、米国とオーストラリアを分断しようとガダルカナル島に飛行場を造りましたが、米軍に占拠されてしまいます。

3万1000人以上の兵士のうち約2万1000人が戦死や病死、餓死したと言われています。

野村俊夫さんの弟・鈴木忠治郎さんは、会津若松市にあった帝国陸軍歩兵第29連隊に所属し、ガダルカナル島に出征しました。しかし、1942年10月24日に28歳という若さで戦死しています。

主な作品を紹介☆

野村俊夫さんは、生涯で3000曲・校歌だけでも100曲以上を作詞しています!

●1939年「ほんとにほんとに御苦労ね」(作曲:倉若晴生さん/歌:山中みゆきさん)
●1944年「あゝ紅の血は燃ゆる」(作曲:明本京静さん/歌:酒井弘さん、安西愛子さん)
●1948年「シベリア・エレジー」(作曲:古賀政男さん、歌:伊藤久男さん)
●1948年「若き日のエレジー」(作曲:古賀政男さん、歌:伊藤久男さん)
●1953年「岬の灯り」(作曲:古賀政男さん、歌:伊藤久男さん)
●1956年「怒涛の男」(作曲:古賀政男さん、歌:美空ひばりさん)
●1957年「東京だョおっ母さん」(作曲:船村徹さん、歌:島倉千代子さん)
●1957年「馬喰一代」(作曲:古賀政男さん、歌:村田英雄さん)
●1959年「東京タワー」(作曲:船村徹さん、歌:美空ひばりさん)

たくさんの作品を作っているので、一部だけ紹介しました!島倉千代子さんが歌った「東京だョおっ母さん」、近江俊郎さんが歌った「湯の町エレジー」、古関裕而さんと組んだ「暁に祈る」は、ヒット曲となりよく知られています。

まとめ

今回は、エール・村野鉄男の実在モデルとなっている”野村俊夫”さんについて紹介しました!エールでは、のちに作詞家となり裕一・久志とともに「福島三羽ガラス」と呼ばれ人気者になる人物です☆

中村蒼さんが演じる”村野鉄男”の人生にも注目しましょう♪最後まで読んでいただき、ありがとうございました☆