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【おちょやん】曾我廼家十吾の生涯に注目!渋谷天外とのエピソードも

連続テレビ小説103作目『おちょやん』

女優の道を生き抜き「大阪のお母さん」と呼ばれるまでになった、ひとりの女性の物語。そんな「おちょやん」には、喜劇界のアドリブ王・須賀廼家千之助(すがのやせんのすけ)が登場します☆そこで今回は、須賀廼家千之助の実在モデルがどんな人物なのか注目してみました!

ハナ
ハナ
アドリブ王って言うくらいだし、面白い人なのかな?!
サク
サク
一平の実在モデル・渋谷天外さんとの関係性にも注目だね☆

ということで、「おちょやん」須賀廼家千之助の実在モデル・曾我廼家十吾さんの生涯について紹介します♪

実在モデル・曾我廼家十吾の生涯!


星田英利さんが演じる喜劇俳優・須賀廼家千之助の実在モデルは、アドリブ王として活躍していた”曾我廼家十吾”さんです!

アドリブ王になるきっかけ

1891年(明治29年)12月4日に、兵庫県神戸市で新聞店を営む西海作次郎さんとヒサさんの次男(本名:文吾)として誕生しました。子どもの頃は新聞配達を手伝っていましたが、その時に大道芸のモノマネをしていたそうです。

そんななか、「大門亭大蝶一座」は美人局という人気のある演目に出演している子役が病気になり困っていました。そこで、”新聞配達をしている面白い子がいたな”と思い出した主人が、8歳の曾我廼家十吾さんに代役を依頼します。

依頼を引き受けた曾我廼家十吾さんは舞台を無事に成功させ、「大門亭大蝶一座」の重要な子役・大門亭文蝶となりました。大門亭大蝶一座が「俄(にわか)」という即興劇をしていたこともあり、アドリブ王へとなっていきます。

曾我廼家十吾という名前の由来

その後、脚本家や演出家として活躍していた尾上和田蔵さんに弟子入りをしていた曾我廼家十吾さん。尾上和田蔵さんに紹介された曾我廼家十郎さんにも弟子入りし、のちに「曾我廼家文福」と名乗り始めました。

しばらくして、曾我廼家十郎さんの元から離れた曾我廼家十吾さんは、劇団を転々としたり一座を作ったりするようになります。1924年(大正13年)にんは、永井茶釜さんとコンビで「文福茶釜一座」を結成し、主に九州一体で活動するようになりました。

1925年(大正14年)11月に曾我廼家十郎さんが死去し、ライバルだった曾我廼家五郎さんが喜劇界のトップになります。その後、1927年(昭和2年)4月に曾我廼家十郎さんの追善興行が主催されました!

曾我廼家十吾さんは、追善興行に参加するために1年契約で「曾我廼家五郎劇」へ入り、”曾我廼家十五”と名乗るように。辞めたあとは、「松竹家庭劇」を旗揚げしました!

名前の由来について
松竹から「十郎」と名乗るよう勧められた曾我廼家十吾さんですが、継ぐのは嫌いと「十郎」襲名は断っています。結果、師匠の十郎と座長の五郎から一文字ずつとった『十五』となりました。

しかし曾我廼家五郎さんは、十郎のしたに五郎がくるという理由で「十五」という芸名を嫌います。なので「曾我廼家五郎劇」を辞めた際に、名前を返上するように迫りました。返上したあとは、本名の文吾から”吾”をとり『曾我廼家十吾』としています。

渋谷天外と浪花千栄子との出会い

1928年(昭和3年)に「松竹家庭劇」を旗揚げした際、二代目・渋谷天外さんも参加していました。浪花千栄子さんは、助っ人として「松竹家庭劇」に参加していましたが、1930年(昭和5年)から正式に配属されています。

そんな、渋谷天外さんと浪花千栄子さんは「松竹家庭劇」には秘密で同棲していました。しかし、曾我廼家十吾さんは2人の同棲を知っていたので、突然2人の自宅を訪れます。慌てた渋谷天外さんは、浪花千栄子さんをトイレに隠しました。

曾我廼家十吾さんは、わざと「トイレを貸して欲しい」と言い、渋谷天外さんを困らせます。そんな曾我廼家十吾さんですが、2人に結婚するよう勧めに行ったのでした。

渋谷天外さんと対立(ケンカ)

喜劇に対する方向性の違いがある曾我廼家十吾さんと渋谷天外さんは、よく対立(ケンカ)していました!戦後の1946年(昭和21年)5月には、渋谷天外さんが妻の浪花千栄子さんを連れ「松竹家庭劇」を脱退しています。その後、曾我廼家十吾さんは病気になり「松竹家庭劇」は自然消滅状態に・・・。

復活後は「曾我廼家五郎劇」に入りましたが、1948年(昭和23年)11月に曾我廼家五郎さんが死去。松竹は、「曾我廼家五郎劇」の主要メンバーに「松竹家庭劇」を合わせ『松竹新喜劇』を旗揚げしました。この時、地方巡業していた渋谷天外さんや浪花千栄子さんを呼び戻し、旗揚げに参加させています。

座長は曾我廼家十吾さん、実権は渋谷天外さんが就任していたようです。

その後、渋谷天外さんの不倫が判明。浪花千栄子さんは、1951年(昭和26年)に離婚して「松竹新喜劇」を退団しました。浪花千栄子さんを失った「松竹新喜劇」は大きなダメージを受けますが、渋谷天外さんの書いた”春団治”がヒットし東京進出も果たします。

晩年

「松竹新喜劇」は映画の撮影をしていましたが、流れを重視したりアドリブを多く使う曾我廼家十吾さんには合わず、1956年(昭和31年)4月に退団しました。

その後は再び「松竹家庭劇」を旗揚げしますが、俄ベースの芝居は古いと人気がでませんでした。79歳になった1970年(昭和45年)5月には、「松竹新喜劇」の舞台に特別出演し、14年ぶりに渋谷天外さんと共演しました。

それからも何度か共演していましたが、体力的な問題で現役を引退。そして、1974年(昭和49年)4月7日に急性肺炎で死去しました。83歳でした。

「おちょやん」須賀廼家千之助について!

曾我廼家十吾さんをモデルにした”須賀廼家千之助”を演じるのは、星田英利さんです!

「おちょやん」では、こんなキャラクター!
一平の父、天海天海とともに喜劇一座を率いていましたが、日本で一番おもしろいのは自分であるとの自負を持っています。とっぴな行動で周囲を振り回す破天荒な男。千代と一平にとっては師匠であり、ライバルであり、トラブルメーカーでもあります。

まとめ

今回は、「おちょやん」に登場する須賀廼家千之助の実在モデル”曾我廼家十吾”さんの生涯について紹介しました☆「大門亭大蝶一座」の主人が依頼していなければ、喜劇界に入ることはなかったのかもしれませんね。

渋谷天外さんとは、結構対立していたようなので「おちょやん」でどう描かれていくのか注目です!須賀廼家千之助と天海一平のコンビに期待しましょう♪最後まで読んでいただき、ありがとうございました☆