朝ドラ

おちょやん須賀廼家万太郎の実在モデル・曾我廼家五郎の生涯に注目!

連続テレビ小説103作目『おちょやん』

女優の道を生き抜き「大阪のお母さん」と呼ばれるまでになった、ひとりの女性の物語。そんな「おちょやん」には、喜劇の巨人・須賀廼家万太郎(すがのやまんたろう)が登場します☆そこで今回は、須賀廼万太郎の実在モデルがどんな人物なのか注目してみました!

ハナ
ハナ
曾我廼家五郎さんは「喜劇」というジャンルを確立したんだよ!
サク
サク
執筆した脚本は1000本超えるんだって☆

ということで、「おちょやん」須賀廼家万太郎の実在モデル・曾我廼家五郎さんの生涯について紹介します♪

曾我廼家五郎さんの生涯!

須賀廼家万太郎の実在モデルは「喜劇王」と言われていた”曾我廼家五郎“さんで、本名は和田久一です!

1877年(明治10年)9月6日に、大阪府宿院町で生まれた曾我廼家五郎さん!父親は代言人という弁護士のような仕事をしていましたが、1885年(明治18年)に死去。それからは、母の実家である堺区錦之町の「浄因寺」に引き取られ、お坊さんになるための修行が始まりました

14才の時には小料理屋をしている母親の元へ行くのですが、西横堀の煙草屋へ丁稚奉公に出されてしまいます。奉公先の女将さんが芝居見物好きでお供していたのですが、曾我廼家五郎さんも次第に芝居の世界へと惹き込まれていきました!

その後、奉公先の主人から「役者を目指してみたらいい」と背中を押され、16歳の時に歌舞伎役者・中村珊瑚郎さんの内弟子に。そして1年後、浪花座で「中村珊之助」という芸名で舞台に立ち初舞台を踏みました。

しかし曾我廼家五郎さんには、いつまでたってもいい役は回ってこず、ついに歌舞伎の世界から飛び出してしまいます。ある日、一座を抜けた曾我廼家五郎さんは千日前改良座・鶴屋団十郎さんの「俄(にわか)」を見て、笑う芝居=「喜劇」を思いつきました。

そこで、役者時代に出会った中村時代(後の曾我廼家十郎)さんを誘い、「前後亭右、左」と名乗って「新喜劇」として旗揚げしましたが不評に終わります。しかし、そんな2人が和歌山の弁天座にかかっていた「中村福円一座」に狂言作者として加わった際に行った「滑稽勧進帳」という芝居が大当たり。

それがきっかけで道頓堀の「浪花座」で公演することが決定し、名前も曾我廼家五郎・十郎と改名して「曾我廼家兄弟劇」を旗揚げしました。初日の明治37年2月10日は、日露戦争が開戦。そこで、日露戦争を取り扱った「無筆の号外」という創作現代劇に差し替えて上演すると、これが大当り。一気に喜劇界の頂点に立ちました。

しかし、「俄」のような軽妙さを重視する曾我廼家十郎さんと、濃い芸風の曾我廼家五郎さんの間には喜劇観に相違があり、曾我廼家五郎さんの渡欧を機に、「曾我廼家兄弟劇」は分裂してしまいます。

翌年に帰国した曾我廼家五郎さんは「平民劇団」(その後「五郎劇」「曾我廼家五郎劇」と改称)、曾我廼家十郎さんは「十郎劇」を結成し、それぞ活動をするようになりました。

1925年(大正14年)、曾我廼家十郎さんが鉛毒からくる腎臓病で死去。それからは、曾我廼家五郎さんが「十郎劇」の役者も一座に吸収し、東京を始め全国各地で公演。こうして大人気劇団の座頭となった曾我廼家五郎さんは「日本の喜劇王」と呼ばれるようになりました。

そんな曾我廼家五郎さんはやがて喉頭癌のため無声の俳優になりながらも舞台に立ち続け、1948(昭和23年)11月に71歳で死去。その後、残された「曾我廼家五郎劇」の役者たちは、松竹家庭劇と合流し「松竹新喜劇」を結成しています。

曾我廼家十吾さんの名前の由来に関係が?!

脚本家や演出家として活躍していた尾上和田蔵さんに弟子入りをしていた曾我廼家十吾さん。尾上和田蔵さんに紹介された曾我廼家十郎さんにも弟子入りし、のちに「曾我廼家文福」と名乗り始めました。

しばらくして、曾我廼家十郎さんの元から離れた曾我廼家十吾さんは、劇団を転々としたり一座を作ったりするようになります。1924年(大正13年)にんは、永井茶釜さんとコンビで「文福茶釜一座」を結成し、主に九州一体で活動するようになりました。

1925年(大正14年)11月に曾我廼家十郎さんが死去し、ライバルだった曾我廼家五郎さんが喜劇界のトップになります。その後、1927年(昭和2年)4月に曾我廼家十郎さんの追善興行が主催されました!

曾我廼家十吾さんは、追善興行に参加するために1年契約で「曾我廼家五郎劇」へ入り、”曾我廼家十五”と名乗るように。辞めたあとは、「松竹家庭劇」を旗揚げしました!

名前の由来について
松竹から「十郎」と名乗るよう勧められた曾我廼家十吾さんですが、継ぐのは嫌いと「十郎」襲名は断っています。結果、師匠の十郎と座長の五郎から一文字ずつとった『十五』となりました。

しかし曾我廼家五郎さんは、十郎のしたに五郎がくるという理由で「十五」という芸名を嫌います。なので「曾我廼家五郎劇」を辞めた際に、名前を返上するように迫りました。返上したあとは、本名の文吾から”吾”をとり『曾我廼家十吾』としています。

まとめ

今回は、「おちょやん」に登場する須賀廼家万太郎の実在モデル”曾我廼家五郎”さんの生涯について紹介しました☆須賀廼家万太郎を演じる”板尾創路”さんは、浪花千栄子さんが生まれたところの近所に住んでいたそうですが、曾我廼家五郎さんは近所に「与謝野晶子」さんが住んでいたそうです!!

おちょやんではどう描かれるのか注目しましょう!最後まで読んでいただき、ありがとうございました☆