朝ドラ

関屋敏子は世界のプリマドンナ!37年の生涯と家族を徹底解説!

連続テレビ小説102作目『エール』

音とともに、音楽学校の記念公演「椿姫」の主役選考会に臨んでいる夏目千鶴子。ソロリサイタルも開催するほどの実力者で、佐藤久志とデュエットも披露するなど、圧巻の歌声で存在感を発揮しています。今回は、そんな夏目千鶴子の実在モデル・関屋敏子さんの生涯に注目です!!

ハナ
ハナ
夏目千鶴子を演じる小南満佑子さんも綺麗な歌声だよね!
サク
サク
関屋敏子さんの歌声も綺麗だったんだろうね♪

ということで、関屋敏子さんの37年の生涯・家族について紹介します☆

関屋敏子さんの37年の生涯とは?

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4歳の頃から琴・舞踊・長唄を習うなど音楽的才能を発揮していた関屋敏子さんは、旧制・東京女子高等師範学校附属小学校(現:お茶の水女子大学附属小学校)に入学。1912年(明治45年)小学校3年生の時、皇后陛下御前演奏の独唱者として「春が来た」「富士の山」を歌い、陛下をはじめ聴衆に大きな感銘を与えました。

そんな関屋敏子さんはのちに、三浦環さんに師事します。そして、1914年(大正3年)初の発表会ではアントニオ・ロッティさん作曲「美しい唇よ、せめてもう一度」をイタリア語で独唱し、翌朝の『都新聞』で「天才音楽少女」と報道されました。

その後は三浦環さんの勧めで、イタリア人テノール歌手のアドルフォ・サルコリさんに師事し、1921年(大正10年)に東京音楽学校声楽科(現:東京藝術大学音楽学部声楽科)へ入学。しかし同校の教育はドイツ系で、イタリア系声楽を学んだ関屋敏子さんは異端視され、中途退学して再びサルコリさんに師事しました

作曲を小松耕輔さんに学び、1925年(大正14年)に丸の内報知講堂で初リサイタルを行ないデビュー!1927年(昭和2年)には憧れだったイタリアに留学名指揮者スキャボニーさんに師事した関屋敏子さんは、1カ月弱で「椿姫」「ルチア」「リゴレット」の三大オペラを修得します。

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そして、1928年(昭和3年)ボローニア大学から日本人初のディプロマ(特別卒業証書)が授与されました!さらにスカラ座のオーディションに合格し、プリマ・ドンナとして「椿姫」「蝶々夫人」など五大オペラを3カ月間主演で出演。その後も国内をはじめ、アメリカ・ドイツ・中国など世界から主演要請があり、“世界のプリマ・ドンナ”の地位を築きました。

その後、1941年11月23日未明に自宅で睡眠薬を飲み自殺。満37歳でした。自殺の原因は離婚・うつ病・作曲の行き詰まり・声の衰えなどいろいろと噂が飛び交っていたそうです。 

ハナ
ハナ
休む間もなく歌って、作曲を続けてってしていたから、心身の疲労は極限に達していたらしいよ!
サク
サク
もっと活躍してほしかったね!

関屋敏子さんの家族!

実家は?!

1904年(明治37年)3月12日、実業家の父・関屋祐之介さんと母・愛子さんの娘として東京府東京市小石川区(現:東京都文京区)で生まれました。父方の家系は二本松藩の御殿医で、母方の祖父はフランス系アメリカ人外交官チャールズ・ルジャンドルさん、祖母は池田絲さんです!

夫や子どもはいるの?

1937年(昭和12年)、農林省に務める柳生五郎さんと結婚しますが、4年未満で離婚しています!柳生五郎さんは関屋敏子さんに引退してもらい、家庭に入ってもらうことを望んでいました。

しかし、音楽が生き甲斐・関屋家の維持のため活動としている関屋敏子さんに引退という考えはなく、離婚ということになったようです!お子さんに関して調べてみましたが情報はありませんでした!お子さんはいないのかもしれませんね。何か情報があれば追記します!

まとめ

今回は、エールに登場する夏目千鶴子の実在モデル・関屋敏子さんについて紹介しました☆“世界のプリマ・ドンナ”として活躍していた関屋敏子さん。もっと楽曲を残してほしかったですね!

エールでは、音とともに「椿姫」の主役選考会に臨んでいる夏目千鶴子。果たしてどのような結果を迎えるのか・・・こちらも注目しましょう♪最後まで読んでいただき、ありがとうございました☆