朝ドラ

スカーレット/ジョージ富士川の実在モデル・岡本太郎の家族や生涯

NHK連続テレビ小説101作目『スカーレット』♪

10月24日に放送された22話!大久保さん(三林京子さん)が本当は良い人と話題になり、Twitterのトレンド1位になりましたね☆「神回だった」「可愛い」「優しさに泣ける」などの声が上がっています!後に登場する”ジョージ富士川”も話題になる気がしますが(笑)

ハナ
ハナ
大久保さんロスが起きそうだよね!
サク
サク
厳しさ・優しさ・おちゃめって・・・心つかまれた☆

今回は、ジョージ富士川の実在モデル・岡本太郎さんの生涯(家族/学生時代/ピカソに衝撃/帰国/戦後/明日の神話』や『太陽の塔』/晩年)・信楽焼との関係について紹介します♪

ジョージ富士川ってどんな人物?!


フランスの美術学校に留学経験を持っていて、こてこての大阪ことばが特徴の世界的な芸術家です!口癖は「自由は不自由やで!」。喜美子とは、大阪での出会いは一瞬でしたが、信楽で思いがけない再会を果たします。信楽に新しい風を吹きこむ?!

実在モデル・岡本太郎さんについて

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名前:岡本太郎(おかもとたろう)
生年月日:1911年2月26日
出身:神奈川県川崎市
身長:156㎝
血液型:O型

家族を紹介!

岡本太郎さんは、神奈川県橘樹郡高津村大字二子(現・神奈川県川崎市高津区二子)で長男として誕生しました☆

●父親/漫画家の岡本一平さん
岡本一平さんは、朝日新聞で”漫画漫文”という独自のスタイルで人気を呼びました!宰相の名は知らぬが、一平なら知っている」と言われるほど有名になりますが、付き合いのため収入のほとんどを使ってしまうほどの放蕩ぶりで、家の電気を止められてしまうこともあったそうです。

●母親/歌人で小説家・かの子さん
かの子さんは、大地主の長女として乳母日傘で育ち、若いころから文学に熱中していました。 世間知らずのお嬢さん育ちで、家政や子育てが全く出来ません。岡本太郎さんが3〜4歳の頃、かまって欲しさに創作の邪魔をすると、兵児帯でタンスにくくりつけたというエピソードも・・・。かの子さんの敬慕者で愛人でもある堀切茂雄さんを、公認で自宅に住まわせていました。

●父方の祖父/書家の岡本可亭さん
北大路魯山人さんの師匠でした。

学生時代

家庭環境の為か岡本太郎さんは、1917年(大正6年)4月に青南小学校に入学しました!しかし、なじめず一学期で退学。その後も日本橋通旅籠町の私塾・日新学校、十思小学校へと入転校を繰り返しました。

絵が好きで幼少時から描いていましたが、中学に入った頃から「何のために描くのか」という疑問に苛まれます。慶應義塾普通部を卒業後、画家になる事に迷いながらも、東京美術学校へ進学しました。

ピカソの作品に衝撃!

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父・岡本一平さんが朝日新聞の特派員として、ロンドン海軍軍縮会議の取材に行くことになります!岡本太郎さんも東京美術学校を休学し、親子三人とかの子さんの愛人2人で渡欧。1929年(昭和4年)に神戸港を出港し、1930年(昭和5年)1月にパリに到着しました!

フランス語を勉強するため、パリ郊外のリセ/寄宿舎で生活を始めた岡本太郎さん。パリ大学で、美学や民族学を学んだといわれています。1932年(昭和7年)に両親は先に帰国し、かの子さんは1939年(昭和14年)に49歳で逝去しました。

芸術への迷いが続いていたある日、ピカソの作品『水差しと果物鉢』を見て強い衝撃を受けます。そして”ピカソを超える”ことを目標に絵画制作に打ち込むようになりました。そして、代表作の「傷ましき腕」を描き上げます!

日本へ帰国!

1940年(昭和15年)、ドイツのパリ侵攻をきっかけに10年ぶりに日本へ帰国します。帰国後は、「傷ましき腕」などを二科展に出品して受賞し、個展も開きました。

しかし、1942年(昭和17年)補充兵役召集され帝国陸軍兵として中国戦線へ出征。1945年(昭和20年)に太平洋戦争が終結し、約半年間の中国・長安付近での俘虜生活を経て再び、帰国しました。

戦後

戦火により自宅にあった全ての作品を焼失したことを知った岡本太郎さん。1946年(昭和21年)に世田谷・上野毛にアトリエを構え、ふたたび制作に励みました!

当時は灰色ばかりでしたが、岡本太郎さんは原色を使い「絵画の石器時代は終わった。新しい芸術は岡本太郎から始まる」と、日本美術界に挑戦状を叩きつけました。そして、 花田清輝さんたちとともに「夜の会」を結成し、前衛芸術運動を開始します!

この頃、岡本太郎さんは平野敏子さんという女性と出会います。平野敏子さんは後に秘書・養女となり、岡本太郎さんが逝去するまで支え続けました。

第35回二科展で『夜明』『森の掟』などを発表しています。

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 1951年(昭和26年)11月、東京国立博物館縄文火焔土器を見て衝撃を受けました。翌年、美術雑誌『みずゑ』に「四次元との対話―縄文土器論」を発表します。 この頃から、焼き物を使って立体的な作品を作り始め、公共的な作品を数多く手掛けるようになりました!

明日の神話』や『太陽の塔』


1960年代後半、メキシコを訪れた岡本太郎さんは、現地のホテル経営者から壁画の制作依頼を受けます。これがのちに岡本太郎さんの代表作のひとつとされる『明日の神話』です!

制作が進められ、未完のまま行方が分からなくなっていた壁画・・・2003年9月に発見され、日本の「明日の神話」再生プロジェクトによって修復された後、2008年11月17日、東京・渋谷駅のJR線と京王井の頭線を結ぶマークシティ内連絡通路に公開・恒久設置されました。


大阪で開催された万国博覧会では、シンボルタワー「太陽の塔」を制作しました。博覧会終了後は取り壊されることとなっていましたが、市民による保存運動により保存され、日本を象徴する建造物となっています。

晩年

1950年代からは、クイズ番組などに多数出演。1970年代以降には、『鶴太郎のテレもんじゃ』にレギュラー出演し、「芸術は爆発だ」「何だ、これは!」などと叫びながら現れる演出が人気を呼びました!1987年(昭和62年)には、NHKばら色の人生』に俳優としてレギュラー出演しています。

そんな岡本太郎さんの創作意欲は衰えず、展覧会出品などの活動を続けていましたが、80歳のときにほとんどの作品を川崎市に寄贈しました。

1996年(平成8年)1月7日、パーキンソン病による急性呼吸不全で死去(満84歳没)。1999年(平成11年)10月30日、川崎市岡本太郎美術館が開館しました!

岡本太郎さんと信楽焼!

昭和39年(1964年)、東京・銀座松坂屋が”東京オリンピック”に向けて外壁工事をするということで、岡本太郎さんがアドバイザーに。そこに名乗りを上げたのが「近江化学陶器」です!

岡本太郎さんは無名の近江化学陶器には荷が重いと考え、顧問をしていた”日本陶管”に頼もうとしていました。しかし、近江化学陶器の営業マンに「岡本太郎さんの求める『赤』を信楽焼なら出せる」と訴えられます。

岡本太郎さんは、伊奈製陶のタイルを使い壁画を制作していたのですが、思うような色が出ずタイルの上から色を塗って不満を持っていたのです!そこから信楽焼の赤に取りつかれ、陶器作品の大半を近江化学陶器で製造しています!

こうして信楽焼に新し風を吹き込んだ岡本太郎さんは、信楽の名誉町民に選ばれました。

まとめ

川原喜美子のモデルとなっている神山清子さんが就職していた「近江化学陶器」と関係はありますが、2人の接点についての情報はみつかりませんでした!エピソードに関しては、オリジナルかもしれません☆

どのように描かれるのか注目しましょう♪最後まで読んでいただき、ありがとうございました☆