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博多祇園山笠の歴史や衣装!たすきの役割や山笠のタブーとは?

福岡県福岡市博多区で毎年7月1日から7月15日に開催される「博多祇園山笠」

福岡ではさまざまな祭りが行われていますが、中でも「博多祇園山笠」「博多どんたく」「放生会」は外せませんよね♪地元住民はもちろん、毎年多くの観光客が訪れ大きな盛り上がりを見せます。

ハナ
ハナ
人酔いしそうなくらいだよね!!
サク
サク
でもお祭りって参加したくなっちゃう・・・(笑)

今回は、博多祇園山笠の歴史や衣装(水法被・長法被・たすき)について紹介します♪

博多祇園山笠の歴史

760余年の伝統を誇る「博多祇園山笠」。福岡市博多区の那珂川と御笠川間の区域で7月に行われる祭で、博多の総鎮守・櫛田神社にまつられる素戔嗚尊(祗園宮)に対して奉納される神事です。国の重要無形民俗文化財でもあります。

博多祇園山笠の起源

博多祇園山笠の起源は諸説ありますが・・・
鎌倉時代・仁治2年(1241年)博多で疫病が流行した際に、承天寺の開祖・聖一国師(円爾)が町民が担いた施餓鬼棚にのり、祈祷水を撒きながら町を清めてまわり、疫病退散を祈願してまわったことを発祥とするという説が一番有力のようです。


古い書物にはいくつか承天寺と山笠との関連性を立証する記述があって、清道を設けて山笠を奉納するのは、その時のお礼参りと言われています。

現在の山笠との類似点
●山台と施餓鬼がよく似ていること
●車輪のついた山車ではなく、車輪なしの台をかつぎあげて走り回るスタイル
●”祈祷水”が”勢い水”に転じたのでは

”流”の起源

現在の山笠で「流」ができたのは、豊臣秀吉による天正15(1587)年の「太閣町割り」が起源と言われています。

秀吉が町割りをしたきっかけは?
大陸貿易の基地として栄えていた博多の支配権をめぐり、様々な大名達が博多の町を戦場として戦いました。その結果、博多の町は”焼け野原”に。天正4年(1576年)、島津義久が博多を撤退する際に町に火を放って全市を焼き払って薩摩に逃走しますが、秀吉は追いかけて島津を降参させます。博多に戻って博多の復興に乗り出し、その手始めが区画整理としての町割りでした。

太閤町割りは区画整理の基準となる筋、太宰府の方角を流れの上手にして基準線の方角を決めます。これが今の”大博通りの博多小学校横”当たりです。現在は「旧下市小路」という石碑が建てられていて、博多大商人はこの町筋に集っていました。


東は御笠川・西は博多川を境に、市街は十町(約1キロ)四方と定め、幹線道路を東西に3本・南北に4本走らせ、その一区画を「流(ながれ)」と呼びました。この「流」が博多祇園山笠のグループ単位の発祥となり、現在は千代流恵比須流土居流大黒流 東流中洲流西流の七流となっています。

追い山の起源

町ごとに飾り山の華美を競いながら練り歩いていましたが、江戸時代・貞享4年(1687年)、土居流が東長寺で休憩中に石堂流(現在の恵比須流)から追い越される「事件」がおきました。このとき2つの流が競争となり、スピードを競い合う「追い山」が誕生したそうです!

山笠存亡の危機も?!

●明治5年(1872年)
山笠の高さや様相は時代によって変化しますが、明治5年までは16メートルにも及び、最も背が高かったと言われています。この時、山笠は突然禁止されました。

●明治31年(1891年)
明治16年に山笠は復興していましたが、山笠が電線を切断する事故が相次いだことなどから、福岡県知事が山笠行事の中止を提議。3メートル程の「舁き山」と、飾っておくだけの「飾り山」に分化する事となりました。舁き手が、締込みだけだったことも中止の理由にあったため、全員が水法被を着用することに!

●明治43年(1910年)
舁き山が低くなり、追い山が新暦7月15日に行なわれるようになります。(追い山は旧暦6月15日に行なわれていて、改暦以降は新暦6月にしたり旧暦6月にしたりと試行錯誤が繰り返されていました)

●昭和20(1945年)
福岡大空襲(被災面積は3.8平方キロメートル、被災戸数12850戸、被災人口60599人。死者902人、行方不明204人、負傷者1708人)。博多地区の奈良屋・冷泉・大浜校区など当時の中心街の被害が大きく、山笠も中止となります。

●昭和23年(1948年)
山笠は復活しましたが人数が足りないため、追い山ならし・追い山とも櫛田入りのみだけでした。

●昭和37年(1962年)
「博多部外」である福岡市中心部に舁入れる”集団山見せ”などが行われるようになりました。万四郎神社前(のち蔵本交差点)から天神・福岡中央郵便局前までの昭和通り約1500メートルを走り、福岡市に舁き入れます。

●昭和30年(1955年)
博多祇園山笠振興会が発足。「博多部外」の新天町等でも飾り山行事が行われました。

●昭和39年(1964年)
川端通商店街が「走る飾り山」を復活させ、その後も櫛田入りを奉納し続けています。「走る飾り山」は電線や信号機・標識などに接触しないよう「伸縮式」に。

●昭和41年(1965年)
2月1日、博多地区の町界町名整理が実施されました。土居流がこの煽りを受けて解散しますが、土居流の有志が「土居流保存会」を作って流の歴史を継続。しかし、呉服町流は解散し他の流に分散に。新しい「町境」を加味して、東町流を中心に東流、西町流を中心に西流が誕生し、大黒流・恵比須流・土居流(保存会)は旧町単位で参加しました。

ハナ
ハナ
いろんな問題を乗り越えてきたんだね!
サク
サク
これからも、ずっと大事にしてほしいね☆

博多祇園山笠の衣装は?

水法被(みずはっぴ)


●はちまき・手拭(てのごい)
水法被を着用する時は必ず頭に巻き、色や柄で役職が細かく分かれています。
水法被(みずはっぴ)
山笠の舁き手は必ず水法被を着用。流や町ごとに意匠が違って、一目で流や町がわかるようになっています。
●腹巻(はらまき)
水法被の下に、腹部の保護と転倒防止のためにさらしを巻きます(流や町内にによっては巻かない所もあるようです)。転倒した際に第三者が引っ張って助けられるように、さらしの端末は捻って綱のようにしてあります。
●締め込み(しめこみ)
3メートル長さの丈夫な綿の素材で出来た締め込み(ふんどし)で色は白や紺色が多く、流や町で様々です。前部には「前だれ」を垂らします。
●舁き縄(かきなわ)
舁き手の必需品です。長さ120〜140cmのわら製の縄で、舁き棒にかけて山笠を担ぐ時に使用します。
●脚絆(きゃはん)
すねの保護のために、ひざ下〜足首にかけて巻きます。
●地下足袋(じかたび)
舗装されたアスファルトを走るためゴム底になっていて、作りも丈夫です。

長法被(ながはっぴ)


山舁き以外の山笠行事に参加する際は『長法被』で参加するのが習わしです。6月1日から7月15日まで着用が許されていて、参加している人の『正装』なので、山笠期間は長法被で結婚式に出席することもあります。

●長法被(ながはっぴ)
山笠期間中に男衆が着用する久留米絣(かすり)で作られた法被で、山笠の儀礼服です。下に白いシャツを着用してから羽織ることが多いのですが、中洲流は水法被を着用する習わしがあります。
●帯(おび)
博多織などで作られた帯で長法被を締めます。デザインは任せられているので、長法被時の帯に注目するのも面白いです。
●手拭(てのごい)
長法被時の役職手拭は、折りたたんで腰の帯に挟み込みます。
●信玄袋(しんげんぶくろ)
小物や財布を持ち歩く際は信玄袋と言われる巾着袋が使われます。
●ステテコ(すててこ)
長法被着用時は、白いステテコを着用するのが習わしです。
●雪駄(せった)
長法被着用時の履物は、雪駄か下駄が習わしです。

ハナ
ハナ
法被姿ってかっこいいよね!
サク
サク
ワンちゃんが法被姿っていうのもよく見かけるよ☆

手拭(てぬぐい)

山笠の参加者がかならず頭に巻いている「手拭い」には、いろいろな模様や色があります。「色・柄の違い」は山笠運営での役割・役職を表すとても重要な意味を持っているそうなので紹介します♪


●一般手拭い
参加するほとんどの人が最初にこの”一般手拭い”を着用します。「若手」と呼ばれる一般の参加者(赤手拭い予備軍も)、子供などが該当。流ごとに色や柄は異なり、基本的に流で統一された色・柄のものを使用します。
●赤手拭(あかてのごい)/赤のみ
取締の補佐や様々な山笠の行事進行の補佐・様々な町内行事の実働役として活躍。山の舁き方や礼儀作法を一通り習得して、ある程度の経験を積み町内で認められた人だけが”赤手拭い”を受け取る事が出来ます。一般若手の指導等も担当しているので「若手のリーダー」的役職でもあるようです。
●衛生(えいせい)/青と白


町内の衛生・ケガ等の対処や防止・子供の保護などを行います。取締や赤手拭の補佐も行い、山笠の安全に欠かせない役職です。
●取締(とりしまり)/赤と白
「現場責任者」的な役職です。様々な取り決めや意見・要望等をまとめるなど、町を代表して山笠の運営にかかわります。

●山笠委員(やまかさいいん)/赤・青・黄緑・黄色
経験豊かな年長者が選ばれることが多く、流の代表である総務を補佐し、行事の円滑な進行を担います。
●総務/青・白・赤
流の代表として祭り行事の統括を行います。基本的に、当番町の総代が就任することが多いようです。

ハナ
ハナ
確かに写真みると様々だね☆
サク
サク
そういうのを見るのも楽しいかも♪

博多祇園山笠の「たすき」

「たすき」は、山笠運行時の役割を表すもので4種類の色があります。いずれのたすきも2色の布をねじって作ったもので、「ねじねじ」との俗称も♪


●交通整理/緑と白
舁き山の運行と、山笠参加者や見物人の安全を確保するために”車両等の交通整理”の役割を担当しています。
●前さばき/黄と白
舁き山が進む道を空け、運行を司る役割を担当していて「行く手をあけろ」という意味の掛け声「前切れ、前切れ」と声を出しています。
●鼻取り/青と白
左右の一番棒の先端についている鼻縄と呼ばれる縄を持って方向を決める役割を担当。舁き手としても経験が豊富な中堅以上にしか勤まらない重要な役目で、表と見送りの左右棒鼻に1人ずついます。
●台上がり/赤と白
山台の上に座り赤い鉄砲を振って、舁き手の指揮を執る役割を担当。表と見送りに最大で3人ずつ上がります。

ハナ
ハナ
タスキの色まで気にしてなかったなぁ!
サク
サク
これも要チェックだね☆

山笠期間中のタブーとは?

胡瓜断ち

一番有名なのは、山笠期間中はキュウリを食べてはいけないというもの!!
理由は、輪切りにしたキュウリの切り口が”山笠の祭神・祗園神(スサオノミコト)”のご神紋である木瓜(ぼけ)の花に似ているため。700年以上も経った今も、山の舁き手はキュウリは必ずつまみ出します。

ハナ
ハナ
中学の担任も参加してて食べてなかった(笑)
サク
サク
期間中は学校の給食に使われてないところもあるみたい♪

女人断ち

胡瓜断ちと共に現在も伝えられるタブーは「女人断ち」です。
お汐井取り(一番山笠は7月1日、その他の流は7月9日)にて身を清めます。身を清めた事により15日まで、山笠に出る男達は女性との接触を避けなければなりません。

人形のタブー

舁き山、飾り山に飾り付ける人形には「この人形を飾り立てると縁起が悪い」と言った「人形のタブー」も存在します。

例:武田信玄の人形を飾った寛文2年(1662年)は、山笠が家に倒れかかり火事が起こったり、元禄5年(1692年)には飾り山の前で人が間違って殺されたりしているため、その後、「武田信玄」単体で飾られることはありません。

大河ドラマ「武田信玄」ブームの際は、武田信玄の人形を抜いたり、山笠の上部に不動明王を置いて厄除けにするなどの工夫がされました。

ハナ
ハナ
胡瓜と女人断ちは知ってたけど、人形にもタブーがあるなんて知らなかった!
サク
サク
山笠っていろんな歴史があるんだね!

まとめ

760余年の伝統を誇る「博多祇園山笠」!いろんな出来事によって中止されたこともあったようですが、現在まで続いているって本当に凄いことですよね☆今までは追い山や飾り山に注目していましたが、これからは衣装などにも注目してみようと思います♪

みなさんも、歴史や衣装に注目していつもと違った楽しみかたをしてみませんか?令和初の「博多祇園山笠」に期待しましょう!最後まで読んでいただき、ありがとうございました☆